みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

人生のピークを過ぎて/人生の下り坂と要介護/日経連載「エイジングとポストモダン社会」上野千鶴子

2008-07-26 22:09:00 | ジェンダー/上野千鶴子
『む・しの音通信』66号、やっと完成です。

昨日からかかりっきりで、途中リソグラフのトラブルもあり、
どうなることかと思いましたが、ぶじ刷り上りました。
半年振りに作ったのですが、へっとへとに疲れています。

もう文字を見るのもイヤ、と最後の力を振り絞って、記事を書いて送信したら、
ログイン画面が現れて、跡形もなく記事が消えてしまってガーン。
こういうときに限って、コピーを忘れてるんです。

気を取り直して、またブログ記事を書いてます。



66号の依頼原稿は、10日締め切りで順調に届いていたのですが、
わたしが書くはずの原稿に手がつかず、けっきょく
金沢の控訴審から帰ってから、1600字の記事と
表紙の1200字の2P分を一気に書きました。

月刊『創』5月号に掲載された「つくばみらい講演中止事件」の
上野さんの記事も、転載の許可を得て載せさせてもらいました。

「む・しネット」会員の方には、じきに届くのでお楽しみに。

明日は「向老学学会」で朝から名古屋へ出かけるので、
通信をwebにアップするのは、あさって以降になります。

明日の基調講演は、上野さんなので、暑い名古屋へ出かけていきます。
600席ということですが、ずい分前に満員御礼になったようです。

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超売れっ子の上野さん、
名古屋だけでなくて、西に東に講演にお仕事に飛び回って、
金沢での裁判の23日もすでに予定がはいってて来られなかったのですが、
宿泊先のロビーで、読みたかった日経を見つけたのでコピーしてもらいました。




「エイジングとポストモダン社会」
[5] 人生の下り坂と要介護――上野千鶴子さん


【 やさしい経済学「21世紀と文明」08.07.23日経新聞(朝刊)】  

 下り坂の最後には、ひとさまの助けがなければ生きていけない要介護の期間が待っている。データによれば、寝たきりの平均期間は8.3カ月。もちろんすべての高齢者が寝たきりになるわけではないが、高齢者の自己否定感は、寝たきりについてもっとも強い。認知症高齢者を見ても、「こんなになってまで生きなければならないのか」と忌避感を持つ人は多い。自立とセルフコントロールに絶対の価値を置いてきた人ほど、そうである。
 「ボクの理想の死に方は、ゴルフ場でぽっくり逝くこと」と言った新自由主義のエコノミストがいる。こういう人には、高齢社会の福祉政策の制度設計をしてもらいたくない。
 寝たきりになっても、認知症になっても死なないでいられる文明社会がようやく訪れた。そのことを歓迎するかわりに、どうして呪詛(じゅそ)しなければならないのだろうか。
 生まれたときには100%、他人の世話になってきた。生きる過程で他人に依存せずにすむことはない。それなら死ぬときも他人の世話になって何が悪いだろうか。家族の世話を受けたくても家族のいない人もいるし、超高齢社会では、子どもに先立たれる高齢逆縁だってある。ひとりやふたりの子ども数では、家族を老後の保険と考える時代はとうに終った。
 要介護になったときに他人の世話を受けることが、恩恵ではなく権利になったのが介護保険だった。老後の安心のためにできた制度だったはずなのに、3年ごとの改定のたびに、改悪に次ぐ改悪を経験している。しわ寄せを食らっているはずの高齢者は声をあげないし、有権者は座視している。社会保険費抑制が至上命題の政策決定者たちは、自分自身が要介護状態で他人の世話を受けることに想像力が働かないのだろうか。地位と権力を持った男性たちを見ていると、妻の介護を受けて「逃げ切れる」と思っているように見える。残された妻の「おひとりさまの老後」がどうなるかは、「知ったことではない」ばかりか、番狂わせで自分がその立場に立つ可能性は考えたこともないのだろうか。
 他人の世話になることが恥でも屈辱でもなく、生きることがそれ自体で尊重され、高齢者のニーズを満たすサービスが多様な選択肢とともにじゅうぶんに提供され、そのサービスを提供する人たちの生活が保障される…しくみができないと、安心して老いることも安心して死ぬこともできない。国の安全保障の前に、国民の生活の安全保障がまず必要だろう。
(日本経済新聞 2008.7.23)


22日の分も見つけました。
この「[4] 人生のピークを過ぎて」は、ネットでけっこう評判になっていました。

「エイジングとポストモダン社会」
[4] 人生のピークを過ぎて――上野千鶴子さん

【 やさしい経済学「21世紀と文明」08.07.22日経新聞(朝刊)】 

 「もしあなたがもう一度人生を生きなおせるとしたら、何歳にもどりたいですか?」という質問がある。これに対する答えには、ジェンダー差がある。女性は30代と答え、男性は50代と答える人がいちばん多いという。
 女の30代は出産・育児に夢中な年齢だ。子どもの手が離れてほっとする時期までに、人生のうちでもっとも充実感を感じるときかもしれない。他方、男の50代は、社会的地位と収入のピークだろう。
 人生のピーク(絶頂期)はいつか?いつがピークかは、過ぎてしまわなければわからないものだ。自分が下り坂にあって、振り返ったときにはじめて、あれが人生のピークだったのか、とわかる。そんなものだろう。生産性のカーブで見れば、体力、気力、経験のバランスのとれた40代がピーク。それからあとは、過去の遺産でめしを食っているようなものだ。若い世代から搾取と言われてもしかたがない。年功序列賃金体系が崩壊すれば、若いうちの低賃金を年とってからの高所得で補償することなど期待できなくなる。会社とも、その時・その場で貸し借りなしの決済をしたほうがよい。開業の医師や登録へルパーは、経験や年齢を問わず、報酬は同じ。わたしは教師をなりわいとしているが、毎年受けいれる学生の人数は同じ。基本的にはくりかえしだから、年齢にかかわらず給与が一定でもかまわないと思っている。
 職人仕事なら自分の生産性のピークはよくわかる。経験や技術で生産物の単価は上がるかもしれないが、若さにまかせての大量生産はできなくなる。年齢とともに衰えを受けいれ、能力に応じた戦線の縮小をはかり、収入に応じた生活規模を考えればよい。
 なのに、世の中にあふれているのは、成長、発展、拡大、進歩の思想とノウハウばかりである。これに対して後退と縮小の思想もノウハウも不足している。
 社会や個人だけではない。家も家族も、最大規模を前提に考えられている。子育てのピークも、じきに終わる。家族の縮小期をプランに入れた住宅設計が必要だと、かねてより建築家に提案しているのだが…。家族の数だけ個室を壁で仕切って、親業を卒業した後、物置と化した子ども部屋をもてあましている人は多い。もっとも家を一生もの、と考えずに、いさぎよく縮小撤退路線で住み替えを選択する人たちも増えてきた。
 ピークを過ぎても人生は続く。そして下り坂の景色も悪くない。
(日本経済新聞 2008.7.22)


「エイジングとポストモダン社会」[1][2][3]は、こちらで読めます(7/22)


先週の日曜日の岐阜新聞には、前に紹介した、
『ポスト消費社会のゆくえ』の書評ものっていました。


書くのも読むのもイヤ、だったはずですが、、、
今日もだらだらと長くなってしまいました(アーァ)。

集中力が途切れてるようです。


昨日は、ともちゃんの誕生日。
お互い忙しかったのでイベントは特になし。


お昼はともちゃんが特製冷やし中華を作ってくれて(笑)、

夜はテルテルさんが沖縄から送って下さったステキなグラスで、
  

かんぱーい 


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コメント
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