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みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

「オレの心は負けていない」/『新編 日本のフェミニズム6 セクシュアリティ』ほか

2009-12-17 19:05:15 | ほん/新聞/ニュース
在日朝鮮人の宋神道さんのたたかいを記録した「オレの心は負けていない」
という映画を見たいと思っていたのですが、自主上映も見るチャンスがなくて終わってしまい
ザンネンに思っていたら、本を見つけたので、読みました。


オレの心は負けていない
在日朝鮮人「慰安婦」宋神道のたたかい
(在日の慰安婦裁判を支える会【編】)
 

こころに残る深い本です。
巻末には、裁判の準備書面11「PTSDとはなにか」と年表が資料として収録されています。

「はじめに」の東京高裁最終意見陳述書を紹介します。

はじめに 東京高裁最終意見陳述書より
              
 宋 神 道
 
 私は間もなく七八歳になります。騙されて慰安所に連れて行かれたのは一六歳の時です。まだ何もわからない、ままごと遊びをしているような子どもでした。
 何もわからないまま、性病の検査台に乗せられた時には、恥ずかしいやら、恐ろしいやら、痛いやら。検査器は入らないし、あんまり暴れたので、軍医もお尻をびしゃりとはたいて下ろしてくれました。
 泣いて、泣いて、そっち逃げたり、こっち逃げたり。隠れていたら捕まって、髪結びつけて殴ったり、足で蹴ったり。暗い部屋に縛り付けて、飯も食べさせない。そうして死ぬ前に保護して、今日から兵隊さんの言うこと黙って聞くんだぞ、とこう言います。そう言われても、その時間になると、やっぱりいやだから、また同じことの繰り返し。涙ばかり流して。
 逃げようとしても帰る道もわかりません。最初は泣いてばかりいましたが、軍人の言う通りにしなければ帳場に殴られる。軍人には刀で脅される。命が惜しくて、死ぬのだけはいやでした。だから軍人の言うことを聞ぐしかねがったんです。日本語も必死におぼえて、はたかれないように、殺されないように、一生懸命やったんです。
 明日は死ぬという覚悟で戦やっている気の荒い軍人ばかり相手にしてたから、私の気性もすっかり荒くなりました。毎日、毎日ビンタとられて、ほっぺたにはタコがよって、今じゃなんぼ叩かれても痛くありません。鼓膜が破れて、耳も片一方しか聞こえません。慰安所で彫られた入れ墨が恥ずかしくて、風呂にも行けません。それでも、生きて来られただけなんぼかましかもしれません。
 隣の慰安所では、クレゾールを飲んで死んだおなごもいました。病気のとき相手をするのを断ったら軍人に殺されたおなごもいます。空襲で死んだおなごも、兵隊さんと心中したおなごもいました。一緒に死んだって、兵隊さんは自分の国に骨が帰るけど、朝鮮のおなごは死んでも自分の国には帰れません。ただそこで穴掘って埋めるだけです。あんな地獄のような慰安所で死んで、ただ穴掘って埋められておしまい。死んでも国に帰ることもできない朝鮮のおなごたちは本当にかわいそうでした。
 けれど、生き残った方が幸せだったのか、戦地で死んだ方がよかったのか。戦争が終わって日本に来てから、海に入って死のうと思ったことが、一度や二度じゃありません。汽車から飛び降りたこともあります。
 若い頃は毎日、毎日、兵隊の夢を見ました。うんうんうなされて、汗びっしょりかいて、河再銀に起こされました。慰安所のことは、何年経っても、いくら忘れようとしても、忘れることができません。ぐしゃぐしゃして、荒れて、大酒飲んで暴れたこともありました。大酒飲んで暴れても、悔しい気持ちが晴れるわけじゃなし、ますます腹が立つだけなのに、馬鹿なことをしたと今では思います。でも、その時はそうしねえでえられねがったんです。
 なして日本の戦に、まだわけもわからない朝鮮の子どもが連れて行かれて、あんな苦労をしなければならなかったのか。考えても、考えても、意味が取れません。だから悔しい気持ちが出るんです。
年をとってから「敬老の日」に近所の年寄りには座布団が配られるけんど、私には届きません。何年も同じ町内に暮らしていても、こんなところまで差別つけられてます。近所には軍人恩給をもらって大いばりで暮らしている人もいます。遺族年金をもらっている人もいます。戦地に引っ張っていく時は「御国のため、御国のため」と言っておいて、今になって、なして「朝鮮人」だの「慰安婦」だのと差別をつけるのか。まったく意味の取れないことばかりです。
 だから裁判に訴えました。なんじょのものだが、意味を知りたいんです。なして私が「慰安婦」にされたのか、なして差別をつけられるのか、その意味をはっきりさせてほしいんです。そうして近所で白い目で見られないようにしてほしいんです。
 裁判を始めたら「生活保護受けて、人の税金で食ってるくせに、何の文句があって裁判するのか」「日本の国に住んでるのに、日本人ばかり悪者にするな」「文句があるなら韓国に帰れ」などと言われました。
 判決を受けた後は、もう死にたくなるぐれえがっかりして、食べ物もろくに喉を通りませんでした。慰安所のことを認めるなら、なして国は過去のことを反省して「申し訳なかった」と一言、言えねえんだか。本当にわかりません。
 日本にいる「慰安婦」で裁判をかけているのは、私一人です。私の他にも「慰安婦」にされた朝鮮のおなごは絶対にいます。けれど、誰一人名乗り出ません。私は恥を忍び、勇気を振り絞って、針のむしろに立つ思いで裁判をかけました。意味の取れることをしなければ、死んでも死にきれねえからです。でも判決受けて、かえって恥をかいただけでした。
 世間では、「慰安婦」は民間業者が連れ歩いたと陰口を言う人もいます。戦地のことは、戦争に行った者でなければわかりません。戦争がどんなに残酷なものか。民間業者がそんなことできるはずがありません。
 判決をもらった後、近所の人からも「おめえ、やっぱり裁判負けたな」と、悪口言われてます。恥ずかしくて近所にお茶っこ飲みにも行けません。
 「国民基金」をもらえばいいんだ、という人も近所にはいますが、意味の取れない金をもらうわけには行きません。きちんと謝罪して、「申し訳なかった」と、意味の取れる補償をしてほしいんです。民間人の金を集めてくれると言っても、また白い目で見られるだけです。
 十数年前に河再銀が亡くなってからは、ずっと独りで暮らしてきました。日本には肉親は一人もおりません。風邪でも引いて寝ていると、このまま独りで死ぬんじゃないかと思い、恐ろしく、情けなくなります。近所の人たちには家族もおり、子どもも、孫もいるのに、私は独りです。戦地で日本の軍人の子を二人産みましたが、慰安所では育てられずに他人に預けました。どうにも仕方がなかったとはいえ、親が子どもを捨てるような罪作りなことをして罰が当たったんだと、涙が出てきます。中国から、親捜しの子どもが日本に来ると、一人一人顔を確かめて見るが、わかりません。せめて子どもでもいてくれれば、こんなに肩身の狭い思いをしなくても済んだのではないかと思えてならねんです。
 裁判を始める前は、恥ずかしくて、誰にも慰安所のことは話せませんでした。でも、裁判を始めてから、本当にたくさんの人の前で体験を話しました。信用してもらえるかどうか心配でしたが、みんな心から聞いてくれました。中には、私が慰安所に連れて行かれたちょうど同じ年頃の子どももいました。こんな子どもに意味が取れるのかと心配で、心配で、恥ずかしくて話したくなかった、逃げ出したかったけんど、仕方がない。話をしたら、こんな子どもでも、ちゃんと意味を取って、涙を流しながら聞いてくれました。半分は気持ちが晴れました。安心しました。
 人の心の一寸先は闇です。慰安所で七年、日本に来てからも五〇年以上、人の心が信じられずに生きてきました。疑うことしか知りませんでした。でも、裁判かけて、体験を話してから、少しは人間らしくなれたと思っています。
 私は一六の年から日本人の中で暮らしてきました。日本人と気持ちよくつき合いたいと願い、そう努めてきました。私はあと何年生きられるんだか分かりません。けれど、日本に住む朝鮮人の子どもと日本人の子どもたちが仲良くするためにも、過去の過ちは過ちとしてきちんと反省して、「申し訳なかった」と謝罪してほしいです。
 あんな残酷な戦争は、二度と繰り返してはいかんのです。「慰安婦」ばかりでなく、中国の人も、日本の兵隊も、苦しめられた惨めな姿を、私はこの眼で見てきました。
 裁判長。
 「慰安婦」問題を子どもたちの時代にまで持ち越さないように、勇気を持って、きちんとした解決になるよう判決を出してください。裁判長が政府にちゃんと言ってくれなければ、本当に頼るところがないんです。私一人のためでなく、今でも隠れている他の「慰安婦」の心の傷を解く、血の通った判決を出してください。よろしく頼みます。

 二〇〇〇年一〇月一九日 



在日の慰安婦裁判を支える会とは 
 1992年1月、「慰安婦」問題にかかわる4団体が主催して「慰安婦110番」ホットラインを開設。在日の元「慰安婦」被害者・宋神道さんとの出会いはそのとき寄せられた情報がきっかけでした。同年10月25日、宋さんの証言集会が東京の湯島で開かれ、その後裁判提訴の意志が確認されました。
 こうした経緯をたどり、1993年1月23日に、「在日の慰安婦裁判を支える会」が発足。宋神道さんの7年間におよぶ中国戦地での「慰安婦」生活の実態と、戦後在日を余儀なくされた宋さんの被害状況を明らかにし、これまで宋さんの人権がいかに侵害されてきたか、その被害に対して日本政府からの謝罪と補償を勝ちとるため、広く裁判の意義と目的を日本の世論に訴えてきました。
 「在日の慰安婦裁判を支える会」の事務局は、在日韓国・朝鮮人、日本人で構成されています。とはいうものの圧倒的に女性が多く、学生、会社員、主婦などさまざま人が集まっています。構成人数は現在約10名。月1回、事務局会議(緊急会議がもたれることもある)が開かれ、宋さんの近況についての情報交換や、他の戦時性暴力被害者裁判にかかわる事柄の話し合い、宋さんの被害回復につながりそうなことなどに取り組んでいます。
 活動は長期かつ広範にわたるため、各自の生活に差しさわりのない範囲で実務を担っていくことを前提としています。会計、名簿管理、会報、渉外(マスメディアや他団体)といった実務担当のほかに裁判、宋さん対応、パンフ、イベントなどのチームをもうけ、活発な支援活動を展開しています。


 「オレの心は負けていない』予告編

(映画)オレの心は負けていない(在日の慰安婦裁判を支える会)

「オレの心は負けていない」映画のご紹介

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今週読んだ本。
『新編 日本のフェミニズム6 セクシュアリティ』。
解説を上野千鶴子さんが書いてみえて、増補も含めて執筆者が多彩で、
ほんとおもしろかったです、の一言です。



 『新編 日本のフェミニズム6 セクシュアリティ』
(編集)天野正子 伊藤るり, 井上輝子, 伊藤公雄, 斎藤美奈子, 上野千鶴子(解説)


関連で、執筆者の本を2冊紹介。

『街を浮遊する少女たちへ ― 新宿で〈待つ〉〈聴く〉を続けて五十年 ―』
(兼松 左知子著/岩波書店/2009)
 

  
性的支配と歴史―植民地主義から民族浄化まで
(宮地 尚子 (著) /大月書店/2008)


19日の静岡県男女共同参画センターでの講演のレジメをつくっているので、
今日はこれでおしまい。
資料は一足先に送りました。レジメの原稿は一晩寝かせて、明日送ります。

おでんのおいしそうなにおいが漂ってきました。


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