みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

<いのちの響き>相模原事件の被害者家族(中)この子の親でよかった/(下)苦労した分、かわいいの

2017-01-08 20:29:45 | ほん/新聞/ニュース
天気予報は昼過ぎから雨。
朝のうちは曇りだったのでいつものようにウォーキングに出発。
10時ころ小さな子たちが遊びにやって来ました。

午前中、でリュウノヒゲ、ナンテン、ピラカンサの青い実、
赤い実をとってきて遊んだりして、お昼ご飯をたべて帰っていきました。

雨が降ってきて暗いので、家のなかのカトレアは胡蝶蘭を、
植物育成LEDライトで照らしてやりました。

これも、ネットで見つけて購入したもの。
家のなかに取り込んでいる植物に、順番にあててやるつもりです。

昨日は、寒かったのですが陽がでていたので、午前中庭仕事。

いまを盛りと咲いているマホニアと山茶花ノ花がきれいでした。










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後半は、
中日新聞の生活面でお正月から連載の
<いのちの響き>相模原事件の被害者家族、
「(中)この子の親でよかった」と「(下)苦労した分、かわいいの」を紹介します。

   <いのちの響き>相模原事件の被害者家族(中)この子の親でよかった 
2017年1月4日 中日新聞

 相模原市の障害者施設殺傷事件で、重傷を負った尾野一矢さん(43)が初めて親元を離れたのは十二歳のとき。新しい住居となった神奈川県厚木市の施設には、一矢さんと同じように知的障害のある子ども三十人余りが暮らしていた。

 平日の昼間は地元の特別支援学校に通学。施設にいる間は、静かにテレビを見ていたり、職員と一緒に散歩して体を動かしたりした。この施設では、刺しゅうを覚えたり、畑仕事をする時間がある。一矢さんは障害のためできなかったが、「優しく見守ってくれる職員のおかげで、落ち着いて過ごしていた」と父の剛志(たかし)さん(73)。

 むしろ寂しがったのは、同県座間市の自宅から送り出した両親の方だった。剛志さんは保護者会を立ち上げ、用事を作っては施設に様子を見に行った。母のチキ子さん(75)も、一矢さんが一時帰宅した際は好物のステーキを振る舞い、口癖の「美味(びみ)」と言わせるのが楽しみだった。

 一九九六年、二十三歳になった一矢さんのため、成人向けの施設を探したところ、改修を終えて空きがある施設が相模原市にあった。それが「津久井やまゆり園」だった。剛志さんはやまゆり園でも家族会の会長を務め、二人そろって月一回は会いに行った。

 一方で、一矢さんの帰宅頻度は減っていった。全身をかきむしるなどの自傷行為が続いていることに加え、体が震えるなどの発作もひどくなり、かかりつけの医師がそばにいないと心配だった。一矢さん自身、園の生活になじんでいた。「やまゆりでがんばる」。そう両親に意思を伝え、三年ほど前から帰宅をあまり望まなくなった。

 「親離れしたんだね」。剛志さんが立て続けに病気になり、家族会の会長職を辞めて、自宅のクリーニング店を閉めた時期とも重なっていた。一息つこうと話していた直後の昨年七月二十六日、事件は起きた。

 一矢さんは首や腹を刺され、病院に救急搬送された。手術後も容体は安定せず、意識が戻って面会できたのは二日後。集中治療室のベッドで横になっていた一矢さんは、両親に気付くと、目を離さず何度も叫んだ。

 「お父さん、お父さん」。普段は言葉をあまりしゃべらないわが子が、懸命に自分を呼んでいる。初めての出来事に剛志さんは「一矢のお父さんでよかった」と胸がいっぱいになり、頭を抱きしめてほおずりした。

 一矢さんは退院後、建て替えが決まった園を一時離れ、厚木市の障害者施設に身を寄せている。黒かった髪は事件を境に白くなり、急に「怖い」と叫ぶこともある。心の傷を慰めようと、両親は週一回、欠かさず施設を訪ね、一緒の時間を過ごしている。

 両親の心にも深い傷痕が残った。

 「障害があるというだけで命が軽んじられるなら、自分たちが一矢からもらった幸せも否定されるというのか」

 事件後、被害者の親として実名公表に踏み切ったのは、「障害があってもちゃんと生きていけるということを社会が理解しなければ、第二、第三の事件が繰り返される」との切実な思いがあったからだ。
 (添田隆典) 


 <いのちの響き>相模原事件の被害者家族(下) 苦労した分、かわいいの 
2017年1月5日  中日新聞

 手にはケーキを入れた手提げ袋。街がクリスマスの華やかな雰囲気に包まれた昨年十二月二十五日、神奈川県藤沢市の野口宣之さん(77)と輝子さん(76)夫婦は、同県厚木市にある施設に入った。「喜ぶかな」。そう思うと、輝子さんの足取りは軽かった。

 施設には長女の貴子さん(45)が暮らす。三人は食堂でテーブルを囲み、ケーキを口に運んだ。親子のささやかなクリスマス。娘へのプレゼントはそれだけではなかった。

 「正月は家に帰るんだよ。一緒にお雑煮を食べるからね」。輝子さんは娘にゆっくり語りかけた。

 相模原市の「津久井やまゆり園」で暮らしていた貴子さんは、昨年七月の事件で首を刺されて重傷を負い、五カ月以上帰宅できなかった。自宅にこれほど長期間帰らないのは初めてだが、けがの回復や生活が落ち着くのを待つしかなかった。「お雑煮やおせち料理をしっかり準備しなきゃ」。家族一緒に正月が迎えられる喜びを、おとなしく聞いている娘の隣でかみしめた。

 貴子さんは二歳ごろになっても、言葉が全く出てこなかった。「耳が聞こえないのでは」。心配した輝子さんは、耳鼻科に貴子さんを連れて行き診察してもらったが異常なし。児童相談所や脳外科で初めて、自閉症で知的障害を伴っていると分かった。

 貴子さんは水遊びが大好きで、休日には家族でよく海水浴に行った。輝子さんがピアノを弾くと、うれしそうに鼻歌でメロディーをまねするので、家では輝子さんが得意のピアノをよく聴かせた。

 環境の変化にとても敏感で、一度泣きだすとなかなか止まらなかった。二歳のころ、銀行員だった宣之さんの転勤で、一家は藤沢市の自宅から名古屋市に転居。夜泣きが一層ひどくなり、輝子さんは夜通しあやして、眠れない日が続いた。

 やがて、輝子さん自身も体調に異変を感じるように。子育てや家事の心労が積もった結果、一年ほど入院しなければならなくなり、中学一年だった貴子さんは神奈川県小田原市の障害児施設で暮らすことになった。退院したら引き取るつもりでいたが、医師から「自宅でこれ以上育てるのは難しい」と許可が下りなかった。

 それからは、週末の帰宅を楽しみに待ち、娘が帰ってくると好物のウインナーやウナギの料理を振る舞った。日曜夜に輝子さんが「明日、施設に戻るんだよ」と言うと、貴子さんは自分で着替えをして支度した。

 「言葉が話せなくても、貴子はちゃんと理解できているし、私も顔を見れば貴子の気持ちが分かる。離れて暮らすのは大人になるまで」。そう思っていたが、体調はなかなか戻らず、医師から再びストップがかかった。結局、二十年ほど前に津久井やまゆり園に移った。

 貴子さんは五年ほど前から白内障を患い、今はほとんど目が見えない。「自分で症状をうまく伝えられないため、悪化を止められなかったのでは」と、輝子さんは気の毒がる。

 貴子さんは、けがの治療を終えた八月末から今の施設で過ごし、やっと落ち着きを取り戻しつつある。帰宅できない間、両親は十日に一回のペースで娘に会いに行った。自宅から車で片道約一時間以上。近くの施設の方が負担は軽いが、慣れない環境に置かれる娘のつらさを思えば、輝子さんは苦にならない。

 「そばにいたい気持ちがあれば、距離の近い遠いは関係ないの。それに苦労した分、余計にかわいいから」
 (添田隆典) 


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1月7日(土)のつぶやき

2017-01-08 01:04:21 | 花/美しいもの
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