石牟礼道子さんが亡くなった。
どの新聞にも一面に訃報の記事が載っている。
パーキンソン病でペンを持てなくて、筆記をされているのは知っていたけれど、
もっと生きてことばを発しつづけるだろうと思っていた。
『苦海浄土』『天の魚』など石牟礼さんの書いた本を読んで、
その深いことばを受け取ったものの一人として、とても悲しい思いです。
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『苦海浄土』『天の魚』など石牟礼さんの書いた本を読んで、
その深いことばを受け取ったものの一人として、とても悲しい思いです。
中日春秋(朝刊コラム) 2018年2月11日 中日新聞 「高漂浪き」と書いて「たかされき」と読む。熊本県水俣のことばだそうだ。何かの声や魂にいざなわれ、さまよい歩く。そんな意味らしい ▼その作家はその地元の言葉についてこんな説明をしている。「村をいつ抜け出したか、月夜の晩に舟を漕(こ)ぎ出したかどうかして、浦の岩の陰や樹のかげに出没したり、舟霊さんとあそんでいてもどらぬことをいう」(『苦海浄土』第三部・「天の魚」) ▼水俣病患者の苦しみを描いた『苦海浄土』などで知られる作家の石牟礼道子さんが亡くなった。九十歳。その作品は水俣病への世間の注目を集めるきっかけとなった ▼「高漂浪き」の人だったのだろう。米本浩二さんによる評伝の中に、こんな話があった。一九五八年、水俣病に関する熊本大学の報告書を読んで、まるでその苦しさが自分に伝わったかのように、しばらく寝込んでしまったそうだ ▼人間の痛み、悲しみ、怒り。そういうしゃがれた声や叫びのする場所へと自然とさまよい歩きだし、声に触れ、痛みをわがもののように感じる。ときに死者の声さえ聞こえる。その心こそ作品にあふれる迫力と、不思議な透明感の秘密なのか ▼「義によって助太刀いたす」。『苦海浄土』は弱い立場の人を助けたい一心で書いた。「高漂浪き」の義の人は今、どこをさまよっているんだろう。たぶん、人のすすり泣く声がするところである。 |
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石牟礼道子さん死去 水俣病を描いた小説「苦海浄土」 2018年2月10日 朝日新聞 水俣病患者の苦しみや祈りを共感をこめて描いた小説「苦海浄土」で知られる作家の石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さんが10日午前3時14分、パーキンソン病による急性増悪のため熊本市の介護施設で死去した。90歳だった。葬儀は近親者のみで執り行う。喪主は長男道生(みちお)さん。 熊本県・天草に生まれ、生後まもなく対岸の同県水俣町(現水俣市)に移住した。短歌で才能を認められ、1958年、詩人谷川雁(がん)氏らと同人誌「サークル村」に参加。南九州の庶民の生活史を主題にした作品を同誌などに発表した。68年には、「水俣病対策市民会議」の設立に参加。原因企業チッソに対する患者らの闘争を支援した。 水俣病患者の心の声に耳をすませてつづった69年の「苦海浄土 わが水俣病」は高い評価を受け、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、「いまなお苦しんでいる患者のことを考えるともらう気になれない」と辞退した。以降も「苦海浄土」の第3部「天の魚」や「椿(つばき)の海の記」「流民の都」などの作品で、患者の精神的な支えになりながら、近代合理主義では説明しきれない庶民の内面世界に光をあてた。 2002年には、人間の魂と自然の救済と復活を祈って執筆した新作能「不知火(しらぬい)」が東京で上演され、翌年以降、熊本市や水俣市でも披露された。 晩年はパーキンソン病と闘いながら、50年来の親交がある編集者で評論家の渡辺京二さんらに支えられ、執筆を続けた。中断したままだった「苦海浄土」第2部の「神々の村」を2004年に完成させ、3部作が完結。11年には作家池澤夏樹さん責任編集の「世界文学全集」に日本人作家の長編として唯一収録された。 73年、水俣病関係の一連の著作で「アジアのノーベル賞」として知られるフィリピンの国際賞「マグサイサイ賞」、93年には不知火(しらぬい)の海辺に生きた3世代の女たちを描いた「十六夜(いざよい)橋」で紫式部文学賞。環境破壊による生命系の危機を訴えた創作活動に対し、01年度の朝日賞を受賞。03年に詩集「はにかみの国」で芸術選奨文部科学大臣賞を受けた。全17巻の全集(藤原書店)は13年までに刊行(14年に別巻の自伝)。他の著作に「西南役伝説」「アニマの鳥」「陽のかなしみ」「言魂(ことだま)」(故・多田富雄氏との共著)など多数。 15年1月から本紙西部本社版で、17年4月から全国版でエッセー「魂の秘境から」を連載中だった。 作家・池澤夏樹さんの話 近代化というものに対して、あらゆる文学的な手法を駆使して異議を申し立てた作家だった。非人間的な現代社会に、あたたかく人間的なものを注いでくれたあの文章を、これからはもう読むことができない。本当はもっと早くから、世界的に評価されるべき作家だった。 |
社説:石牟礼道子さん死去 問いつづけた真の豊かさ) 毎日新聞2018年2月11日 心は本当に満ち足りているのだろうか。亡くなった作家、石牟礼道子(いしむれみちこ)さんが改めて私たちに問いかけているような気がする。 石牟礼さんの代表作「苦海浄土(くがいじょうど)」は鋭く繊細な文学的感性で水俣病の実相をとらえ、公害がもたらす「人間と共同体の破壊」を告発した。 1969年刊行の同書は高度経済成長に浮かれる社会に衝撃を与え、公害行政を進める契機ともなった。 56年、熊本県水俣市で原因不明の病続発が保健所に通報され、水俣病は公になる。だが、チッソが海に流す排水の有機水銀による魚介類汚染が疑われても行政の動きは鈍く、ようやく68年に公害病と認定された。 この間の放置で被害がどれだけ拡大したかわからない。公害を大きな問題にすると経済成長のブレーキになりかねないという政府内の消極姿勢、世論の無関心もあった。 公害がむしばむのは自然と健康だけではない。差別と対立。家族、集落の絆も断たれ、生活や人生そのものが否定される。「苦海浄土」はそれを克明に、患者一人一人と向き合うようにして描き、全国の読者の心を動かした。そこには公害行政の草分けとなった人々も含まれる。 遠隔の大都市圏などに「地方」の情報が十分届いていなかった。石牟礼さんは「この事態が東京湾で起きたら、こうはならなかったろう。幾度もそう考えた」と書いている。公害に限らず今も問われる課題だ。 公害は、あくなき発達と利益追求文明の落とし子でもある。 石牟礼さんは、60年代、初めて上京した。その時抱いた深い違和感と疑問を後に本紙にこう語っている。 「朝異様な音に目が覚めた。もの皆をひき砕く轟音(ごうおん)と感じました。車や工場やいろんなものが出す音が織り成す。このような凶暴な音に包まれた文明とは何でしょう」 「苦海浄土」の中で老いた漁師が語る。「魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい」 天の恵みの魚を要るだけとって日々暮らすような幸福。今は幻想とも思える、そんな充足感をどこかに失ってしまった現代を、石牟礼さんの作品は見つめ続ける。 |
石牟礼道子さん死去 「苦海浄土」水俣病描く 90歳) 2018年02月10日 西日本新聞 公害病の原点とされる水俣病の患者と家族の苦悩を描いた大作「苦海浄土(くがいじょうど)-わが水俣病」などの著作で知られる作家の石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さんが10日午前3時14分、パーキンソン病による急性増悪のため熊本市東区の介護施設で死去した。90歳。熊本県天草市出身。葬儀・告別式は近親者のみで営む。喪主は長男道生(みちお)氏。 1927年、熊本県天草市(旧宮野河内村)生まれ。生後間もなく同県水俣市(旧水俣町)に移った。戦前は小学校の代用教員を務めたが、軍国教育の一端を担った自責の念から退職。結婚後は主婦として過ごす傍ら、水俣病が発生した漁村を訪ね歩き、患者や家族と交流を深めた。58年結成の文学集団「サークル村」の同人誌に患者たちの様子を描いた作品を発表し、69年「苦海浄土-わが水俣病」として刊行、水俣の現実を伝える文学として一躍注目を浴びた。 水俣病第1次訴訟(69年、熊本地裁提訴)の支援組織「水俣病市民会議」の発足メンバーとして一貫して患者たちを支援。2013年に天皇、皇后両陛下が水俣を訪問される際に「胎児性患者にぜひ会ってほしい」と皇后さまに手紙をしたため、両陛下と患者の面会が実現した。 著作に苦海浄土(3部作)のほか「西南役伝説」「春の城(旧題「アニマの鳥」)」「はにかみの国-石牟礼道子全詩集」など。02年には、水俣病をテーマに現代文明を批判する新作能「不知火(しらぬい)」を発表した。苦海浄土は1970年に第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、受賞を辞退した。73年に「アジアのノーベル賞」とされるマグサイサイ賞を受賞、86年に西日本文化賞、2003年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。 =2018/02/10付 西日本新聞夕刊= |
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