常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

珍名

2014年04月01日 | 日記


「四月一日」という苗字がある。富山県あたりにあるそうだが、旧暦ではこの日は着替えをする日。いままで着ていた綿入れから合せに着替えるので、「ワタヌキ」と読む。今日は欧米では、エープリル・フールだから、なんとも眉唾のような名前である。

八百比丘尼という長寿者の伝説がある。若狭から京都に来た老婆で齢は八百歳であるという。洛中の人々が競ってこの老婆を一目見ようの宿舎に集まったが、門を閉ざして誰にも合わない。ただ、金持ちは百銭、貧乏人は十銭出せば見ることができたという。

若狭にこんな言い伝えがある。ある男が山で異人に会い、別天地のようなところに連れていかれて「不老長寿の薬だ」と言って、人魚の肉を貰った。家に持ち帰ってところ、出迎えた娘が見つけて食べてしまったので、四百歳を過ぎても生きている。この娘こそ八百比丘尼だという。この話を信じるかどうかは、今日が何の日かを考えてよく判断する必要がありそうだ。

日記・雑談 ブログランキングへ




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤毛のアン

2014年04月01日 | 日記


快晴、悠創の丘から山形の市街を見おろすように、雪の葉山が輝いて見えた。NHK朝の連ドラ、「花子とアン」が今朝から始まった。「赤毛のアン」が日本では長く児童文学として位置づけられてきたのは、村岡花子によって翻訳されたことが大きな要因である。甲府のクリスチャンであった安中家の長女として生まれた花子は、甲府教会で幼児洗礼を受けた。その後上京して東洋英和女学校に入学し、カナダ人宣教師から英語を学び、佐々木信綱から万葉集の講義を受けた。花子は友人の勧めで、童話を執筆するようになる。

花子は、女学校卒業後、甲府の女学校で英語教師、東京の教文館で児童雑誌の編集者などで働いたあと、福音印刷の経営者である村岡儆三と結婚する。1920年長男をもうけるが、6年後に病で失ってしまった。この心痛を癒すために、花子は英語児童文学の翻訳の道を歩むようになる。花子がモンゴメリの「赤毛のアン」を知ったのは、カナダ人宣教師から贈られた原書である。1938年のことであった。戦時下で灯火管制のなか、花子はこの原書をこつこつと翻訳した。花子の翻訳は、子供向けの本であることを意識し、ときの原文の省略を行った。

翻訳は終戦のころの終わっているが、三笠書房から「赤毛のアン」として刊行されるのは1952年のことである。この本は日本中から広く受け入れれたが、それは児童向けの物語としてであった。


日記・雑談 ブログランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする