文久3年4月13日の夜、清川八郎は江戸麻布の一つ橋で、幕府の侍数名に襲われ惨殺された。享年34歳、幕末尊攘派の志士として活躍しただけに、その死は惜しまれる。八郎は新撰組の生みの親といってもよい。山形は庄内地方の僻村、清川の素封家である酒の醸造家に生まれた。年少のころ稼業を継がずに江戸に出て、儒学を学び、剣術を習った。
八郎は郷士と言われる。侍ではないが、侍以上に大名や旗本に親近感を抱いていた。剣においても、儒学においても、八郎は侍以の素養を積んだ。文筆においても一流であった。『西遊草』という八郎の旅日記が岩波文庫に収められている。簡明で、八郎の好奇心がありのままに綴られている。
西遊草の著者であり、田舎の素封家の息子がなぜ、幕末維新という修羅の世界へと足を踏み入れたのか。その疑問に答えをできる人は稀有であろう。だが、生きている人間が遭遇する時代の転換点は、すべてを飲み込んで大きなうねりを見せる。八郎のであった歴史のうねりも、人事の世界を超えたものであった。それこそが、清川八郎という人間を解き明かす鍵であろう。
魁(さきがけ)てまた魁ん死出の山 迷ひはせまじ皇(すめらぎ)の道 清川 八郎
この歌は、八郎が暗殺されるその日に詠んだものである。親交のあった高橋泥舟の家を訪ねて、この歌を示した。泥舟は、この日会った八郎について書き残している。「威風凛々」。発する声は鐘のごとく、眼光は人を射る。つまり、八郎は死のその日、自らの信念を体中に発散させたいた。
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