
りんごがおいしい季節になってきた。昔のリンゴ園はのリンゴの木はこんなに低くなかったような気がする。ふくろ懸けも摘果も脚立に上がって行っていたように思う。山形は果樹王国でたくさんの果物があるが、故郷の北海道では果樹が少なく、昔からあったのはリンゴと桜桃ぐらいしかなかったように思う。生家のあった深川にも、リンゴ園が何軒もあった。
くれなゐに色づきながら生りてゐる林檎を食ひぬ清しといひて
三人して林檎の園に入りて来つ林檎のあひを潜りてぞ行く 斎藤茂吉
この歌を詠んだのは、昭和7年8月24日、北海道の深川に鬼川医院を訪れたときである。この病院の院長鬼川俊蔵は、医師の傍ら歌人としても活動し、自らの歌集を茂吉に献呈し交流を持っていた。茂吉の次兄守谷富太郎は、東京で医師の免許をとり開拓医として北海道に渡った。深川の隣町、秩父別に医院を開業したのは、茂吉との知己を得ていた俊蔵が力を貸したものらしい。そんな事情があって、昭和7年に志文内で医院を開業していた富太郎を、訪ねた際に深川の鬼川病院にを訪れることになった。
深川から石狩川を渡れば音江の山がある。ここの国見は私の姉が嫁いだ村である。眼下に石狩川の蛇行する姿が見下ろせる。茂吉たち兄弟3人が訪れたリンゴ園は、この音江の山の方にあったと想像される。この日の夜、深川の料亭江刺家で撮影された宴会の記念写真がある。鬼川俊蔵が中央に座っているから、遠来の客を俊蔵が接待した席であったようだ。俊蔵は和歌を通じて広い人脈を持ち、茂吉のほか北原白秋、吉植庄亮、上野山清貢などの文化人がこの深川を来訪している。
深川と志文内は道内でも遠く離れているが、茂吉の訪問以後も、鬼川俊蔵と富太郎の交流は続いた。昭和10年には、富太郎が糖尿病からくる坐骨神経痛を患い、歩行困難となって担架に乗せられ、志文内からはるばる深川の鬼川病院に入院している。俊蔵は富太郎の病状を、東京の茂吉に書き送った。茂吉から感謝の手紙が届いた。俊蔵は敬愛する茂吉の兄である富太郎を、ことのほか大切に扱った。