常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

夕日

2015年10月26日 | 日記


明治44年の文部省唱歌に「紅葉」がある。今の小学校では、おそらくこんな昔の唱歌を教えていないであろうが、我々の世代では、こんな明治の曲を歌っていた。この時代、漢語を教えるのが主流であったが、この唱歌には和の響きがあってうれしい気持ちになる。

秋の夕日に照る山紅葉、

濃いも薄いも数あるなかに、

松をいろどる楓や蔦は、

山のふもとの裾模様。

岩波文庫の『日本唱歌集』をひもとくだけで、このメロディーが口の端に出てくる。朝の散歩で紅葉した木々を見るにつけ、夕方になって夕日が山の中に沈んでいく光景を見るにつけ、このなつかしい唱歌が思い出される。
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桜田熊野神社

2015年10月26日 | 日記


徳川家康の遺言に、「下野日光に小堂を建て、神体を勧請せよ。関東八州の鎮守とならむ」とある。日光東照宮が鎮守神として祭られた由縁である。村社が村の鎮守として祭られるようになるのは、神社の由来を見る限り、江戸時代に始まったもののようである。鎮守の森といっても、小さな村社を多い包むような欅の大木が二本あるばかり、神社の面積は70坪というから、分譲住宅の家一軒の敷地の大きさに過ぎない。

ここは元木の集落へ続く作業道で、この前を通ると馬が暴れたり、肥桶を担いで通ると揺れて肥が零れるという騒ぎが時々起こった。そこで村人は、神の怒りに違いないと、ご神体である石を2メートルの深さの穴を掘って埋めたところ、騒ぎが収まった言われている。由緒書きによると、ご神体は250年前、この地の住民が紀州熊野から分身して祭ったものであるらしい。笑い話のような由来であるが、太平洋戦争では、村民の出征があればこの神前で武運長久が祈られたという歴史をもっている。



欅の大木は市の保存樹に指定され、すっかり紅葉して雀の遊び場になっている。この大木を依り代として降臨した田の神は、村の農作業の終了を見守って、山へに帰っていく。かつて肥桶を担いで通った道は、宅地開発が進み、残された田んぼもほとんど無くなっている。
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