常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

丹柿

2015年10月12日 | 漢詩


丹柿(たんし)、赤い柿の実。青空に柿の実が映えるのは、日本の秋の風景である。しかしこれは漢語で、陸游の詩に「緑橙と丹柿と時新を闘わす、一笑して聊か老いて健やかなる身を誇る」という句がある。緑の橙と赤い柿が盛りを競っている、それを前に酒席の一同に自らの元気を誇っている。陸游80歳のときの詩である。晩年になって輝きを増す、その象徴を丹柿とすれば、どうして儂もこうして元気だよ、とその健康を自慢している。

陸游は父が北宋の都汴京へ赴任する船中で生まれた。1125年のことである。ところがこの年北宋は女真族の金に滅ぼされ、揚子江南中国に局限された南宋と金が対峙する時代が150年も続く。しかもその150年後、モンゴルが南宋と金を攻め滅ぼしてしまう。まさに中国受難の時代だ。その苦しい150年の半分を、陸游は生き抜いた。80歳で、自らの健康を誇った陸游も1205年、死の床につく。そこで、あの詩「児に示す」を詠んだ。いわば、陸游の遺言である。

 児に示す  陸游

死し去れば 元と知る 万事空しと
但だ悲しむ 九州の同じきを見ざるを
王師北のかた中原を定むるの日
家祭 忘るる無かれ 乃翁に告ぐるを

死の床で詠んだ詩は、死んでしまえば万事おしまいであることは分かっている。だだわが国土が二つに別れて一つに統一する姿を見ずに終わるのは悲しい。帝王の軍勢が北を攻めて中原を平定したその日、家で祭りをして祭壇でこの父に知らせるのを忘れるでないぞ、と命じた。
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どすぶんど(野ブドウ)

2015年10月12日 | 日記


藪のなかに、宝石をまき散らしたようなどすぶんど。その神秘的な色彩が美しい。野ブドウのことで、山形地方の方言でどすぶんどという。ぶんどはぶどうのことで食べられないぶどうという意味がこめられている。酢漬けにして、打ち身、捻挫の薬にする民間療法にも用いられたきた。野ブドウは山ブドウに対比される蔓性の植物で、山になる山ブドウに対して、野に野生するのが野ブドウである。古くはエビカズラと呼ばれた。

古事記では黄泉の国にイザナミを探しにイザナギが行ったが、そのあまりにも変わり果てた姿に逃げ出すが、イザナミは鬼となってイザナギを追う。イザナギは恐怖にかられながら逃げる途中、エビカズラを見つけて投げ与え、鬼がその実を食べる間に逃げ果せる。このエビカズラが野ブドウでこちらの言葉でどすぶんどということになる。

秋になるとどすぶんどやヨーシュヤマゴボウなど実がその植物の存在を誇示するようになる。人は秋の日にかがやく実を愛でながら、一年が早くも過ぎようとする感慨にとらわれる。

野葡萄や埃かかりて町はづれ 石川銀栄子
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