学生時代を山形の地でともに過ごしたM君に誘われて鳥海の森に行ってきた。M君が教員となって初めて赴任した学校のある地、松山である。この町の高台が鳥海の森であり、そこに学校がある。山形を貫流する最上川が酒田の海に入ろうとして蛇行する姿が、森から見ることができる。
まさに海に入らうとする最上河と
その周囲に発達せる平野は
鳥海山や月山の中央山脈の山塊を盟友として
幼い私の魂をその懐のなかに育ててくれたのである。
この地で育った阿部次郎は、随筆「秋窓記」にこう書いている。次郎が生まれたのは明治16年8月27日のことである。次郎はのちに書いた少年時代の回想で、外山のことが書かれている。今、鳥海の森と呼ばれている山地が、すなわち外山だ。春から夏・秋にかけて、この山を駆け回って遊んだ。そこに咲く草花、山菜、野兎の俊敏な跳躍に少年たちは我を忘れて駆け回った。北の方角に裾野を海へ長く引く鳥海山の雄姿があり、晴れた日には河口の向こうに海が見え、飛島が細い線のような姿を見せる。
秋の楽しい想い出は、遡上してくる鮭を漁って、里芋と一緒に煮込む鮭汁である。しかし、楽しい想い出はそこまで、人々は厳しい冬の風雪と闘わなければならなかった。
「吹雪のくる前の空は、低くかつ墨を含んで黒い。さうしてひっそりした不気味な静けさの中から、雪囲ひに激し、雪窓をがたつかせる風がうなりだしてくるのである。それが渦巻きをなす大雪を伴ってくるときは、人は言葉通りに一寸先を見ることも出来ない。道をゆく人は身に着くものをしっかりとかき合せながら、笠もしくはその他のかぶりものを片手で一生懸命に抑えて、ただ眼前の一歩一歩を雪だまりの中に踏みしめて行かねばならぬ。」(阿部次郎『吹雪の話』)
後に名著『三太郎の日記』を書く、阿部次郎は少年時代をこんな環境のなかで過ごした。