常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

芽生え

2013年03月25日 | 日記


朝の散歩ですっかり雪のなくなった庭に花の芽生えが見られる。今日は曇り、気温7℃。散歩が気持ちのいい季節になった。

何の芽といぶかるさへや朝たぬし 富永 和夫

今日は電気記念日。日本で最初に灯った電灯は、東京虎ノ門の工科大学校で灯されたアーク灯であった。明治11年3月11日のことである。もっともその時代はどこの家庭でも軽油によるランプがまだ新しいものであった。明治30年代後半になって、田中正年博士が発明したガス・マントル灯が普及しはじめた。青白いガス灯が東京の名物のなった。

ところがガス灯は2、3年で退場を余儀なくされる。電灯がめざましい普及を見せはじめたからだ。ガスの配管工事がまだ完了しない時期に、電灯の普及が始まった。それほど、技術の革新は目覚しかった。

だが、電気の普及は大都会の話で、私の生まれ故郷に電気が来たのは第二次大戦後のことであった。ランプは一晩でホヤに煤がつき真っ黒になった。このホヤ掃除は、子どもたちの仕事であった。

先月、LEDライトが安くなったので、全室この照明に切り替えた。これのよって随分電気の節約になる。これからも、照明は技術革新によって変わっていくであろうが、次世代にはどのような形態になっているであろうか。
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泉ヶ岳

2013年03月24日 | 登山


計画していた不忘山への山行は急遽中止になった。理由は白石スキー場のリフトの営業が20日で終了したからである。すでに雪は大半が消え、雪上のピークハントには向かなくなってしまった。代わりに選ばれた山は泉ヶ岳から北泉ヶ岳への縦走である。

泉高原スキー場のリフトを使い、スキー場のゲレンデから泉ヶ岳の尾根を目指すコースである。雪はやはり固くしまり、尾根の急坂にさしかかったところでアイゼンを履く。先週よりも風が弱く、晴天に恵まれた。急登で頂上を目指すが、尾根筋近くになった一部夏道が現われる。

頂上は灌木の林のある広いところだ。2,3組のパーティーに行き会う。どの顔も春山ののどかさを楽しんでいるように見えた頂上から北泉ヶ岳へ向かう縦走コースで船形山の山並みの見晴らしが開けた。カメラを持参したメンバーがこのパノラマを撮る。



泉ヶ岳から北泉ヶ岳への縦走コースは、以外に楽なコースであった。太いブナの木が一面に斜面を覆っている。どの木も冬芽が少しふくらんでいるような気配だ。遠目に山の林を見ると木が放つ息のような靄がかかっているように見える。



三叉路で昼食休憩をとる。ここは風もなく、のんびりとした時間が流れる。まだ鳥や昆虫の姿は見えないが、春はすぐそこまできている気配である。雲の形がやさしく見える。ここからアイゼンをカンジキに履き替える。

凍解(いてどけ)の径光りそむ行手かな  野村 泊月


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フキノトウ

2013年03月22日 | 日記


阿部襄先生が書いた『庄内の四季』は愛読書のひとつだ。山大の農学部の教授だった阿部先生は、教壇で「生物学」の講義をした。その朴訥な風貌と語り口は、今も脳裏から消えずにある。家は鶴岡にあり、その鶴岡の四季を書いたエセーがこの本である。

その本のなかで、阿部先生は「フキノトウ」について書いている。昨日、野山で採ったときのうれしい感じが、とてもよく表現されているのでここに引用してみる。

「水田の雪は、日ごとに消えて、土手の枯れ草が現われると、もう、その辺にフキノトウの蕾が見えてくる。まだ、先が赤紫がかった葉で包まれて尖っているが、こんなのが、こちらに二つ、少し離れて三つと見えてくると、子どもたちは土手に、フキノトウ採りに行く。採って食べるためというよりは、懐かしいので採ってみるのである。フキノトウのプンと香るあの匂いは、春の匂いである。」

そして子どもたちが採ってきたフキノトウを、大人たちが食卓に出して食べるまでのこだわりを書いている。

「一番外の葉だけ取って、あとはこ小鍋で茹でておひたしにする。そして、まだ、フキノトウの香りがついている手で、茹でたのを、小皿に盛りつける。夕餉のとき、お醤油を少しかけて食べると、ぷんとくる春先の香りとほろ苦い味が懐かしい。すこし、きど過ぎると感じたときは火鉢の灰を一つまみ鍋に入れる。これだけで子どもも食べられるまろやかな味になる。」

フキ味噌も庄内では、バッケ味噌と呼ばれて珍重される。塩茹でしたフキノトウを刻み、同量の味噌に胡桃を摺り、味醂を加えたものに刻んだフキノトウを混ぜ合わせる。阿部先生が紹介したフキノトウのおひたしとともに、庄内の朝ごはんの友にどこの家でも作られている春の味である。
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オオイヌフグリ

2013年03月21日 | 日記


春の野山を歩いていて、日だまりにこの花を見るのはうれしい。こんな可憐な花に、犬のふぐりなどという、らしくない名を付けたのは誰だろう。この花の近くには、フキノトウやノカンゾウなどの新芽が顔を出している。日影には、消え残った雪が黒く汚れをみせているが、春の息吹を少しだけ採って食卓を賑わすのは、一入うれしい気がする。

いぬふぐり星のまたたくごときなり 高浜 虚子

テレビのニュースで東京の桜が開花したことを伝えている。今年は、例年より開花がかなり早い。上野公園では花見の屋台の据付が間に合わず、業者がてんてこまいの様子である。何でも、桜は寒い冬と急な気温上昇による寒暖差が、開花を促すのだという。



落ち葉の中から顔を出す葉ワサビの葉もいとおしい。あと2週間もすると花茎が伸びてくる。その部分を摘んで、三倍酢に漬け込んで食べる。長い冬を耐えてきた身体に生気を吹き込む苦味と辛みがあり、春を告げるすばらしい野菜だ。

フキノトウを刻んでを豆腐汁に入れると、これもまた春の味覚だ。これから出てくる山菜には、どれもきどさがあるが、冬に身体に溜まった毒素消す役目を果たしてくれる。

こんな春の記事を書いていると、北海道の方が猛吹雪を伝えて来られた。先週は吹雪に閉じ込めらて9人もの人が亡くなったばかりだ。そんな冬の只中に、春の花や山菜の記事は、なんだか申し訳がないような気がする。北海道にも早く春が来るのを祈るばかりだ。
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ポテトチップス

2013年03月20日 | 日記


北海道で生まれた私は、ジャガイモに育てられたといってもいい。家の畑には3反部ほどのジャガイモ畑があり、夏の終わりには収穫を手伝ったものである。北海道でジャガイモの大規模栽培を始めたのは、函館ドックの川田吉夫男爵であった。明治40年ころ、種芋をイギリスから取りよせ、肥料や農機具も輸入する新しいもの好きだった。ジャガイモが男爵イモと呼ばれる所以は川田吉夫が始めた北海道のジャガイモ作りによっている。

1888年にアメリカに移民し、カリフォルニアでポテト栽培Iに成功し、ポテトキングと呼ばれた牛島謹爾を忘れてはならない。アメリカで最も有名な日本人と言っていい。カリフォルニア州ストックトン郊外に広がる肥沃なデルタ地帯に目をつけた牛島は、ここに大規模なポテト農場を開拓した。これが見事な成功を収め、その収穫量はアメリカ全体の95%を占めるまでなったいう。

だが、日本排斥運動が広がり、そのなかで日本とアメリカの橋渡しに尽力したが、1926年日本への帰国を決意し、帰国途中の3月20日、ロスアンゼルスで客死した。享年65歳であった。
ポテトチップスはジャガイモを輪切りにして油で揚げたものだが、これが普及するのはまったくの偶然である。所はやはりアメリカの有名な観光地サラトガ温泉にあるホテルのレストランでの出来事である。

そこで働いていたコックの一人が、ジャガイモの小片を誤ってフライ鍋に落としてしまった。これを掬いとって食べたみとところ、なかなか美味しい。それではと、今度はジャガイモを輪切りにして、本格的に揚げて、いろんな料理の付け合せにしたところ、思いのほかの大好評。あっという間に評判になり、ホテルの名物になったのである。

サラトガ温泉は当時の高級リゾート地で、上流階級が逗留するので有名であった。この温泉で、紳士、淑女がポテトチップスをパリパリと齧るのが流行した。その発祥の地にちなんでサラトガチップと呼ばれた。
コメント (2)
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