常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

春分

2013年03月19日 | 日記


気温13℃。春分の日を前に、春らしい日がやってきた。ぼた餅をつくり、お供えの花を買って墓参りに行く。義母の家の片づけをする。老人の一人暮らしは、あまりに捨てるものがたまりすぎる。自分の持ち物を考えると、やはり不要なものはどんどん捨てて、身軽にならねばならぬ。

冬の重たい空気がとれて、日ざしが見えると心もうきうきとしてくる。そんな日に、うれしいできごとがふたつ。一つは今にも咲きそうだったシンビジュームの花芽が、ついに開いた。その可憐さは、冬のあいだ待ち続けた甲斐があるというものだ。微笑むという表現がふさわしい。もう一つは、ベランダの鉢のなかで、行者ニンニクが芽を出したこと。日へ向かって双葉を開くしぐさは、生命の神秘を表している。

日も真上春分の日をよろこべば 林  翔

春の訪れを喜んでいるは、人間ばかりでなく、鉢のなかの小さな植物もまた同じなのだ。



アイヌネギとも呼ばれるこの植物は山菜として珍重される。名前の由来は、山に分け入って修行した修験道の行者が、この山菜を食べて精をつけたためであるらしい。炒め物やサラダなど、ニンニクの香りがしてとてもおいしい。
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光禅寺の石橋と古木

2013年03月18日 | 日記


光禅寺は山形城主最上義光の菩提寺である。この寺の参道には、丸い形をした石橋と長い年月、義光の墓を見守ってきた桜の古木がある。石橋は地元の石工、松田駒蔵明治12年に掛けたものだ。メガネ橋とも呼ばれるこの橋の形には、意味がある。古来地獄極楽絵図に、この形をした橋が描かれている。人間が生まれてから、人生のピークを過ぎ、下り坂を下りながら死を迎える。橋を渡るのは、人の一生を象徴するものなのだ。

この橋をどれだけの人が渡ったであろうか。積み重ねれた石は、踏まれて摩り減っているようにも見える。



この橋に続く参道には桜の古木がある。開花ともなれば、その鮮やかな花の色に埋めつくされるのだが、古木は既に盛りを過ぎて、幹の所々が枯死している。枯れ枝のなかから、幼木が、枝を伸ばし始めているのが見える。
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山形神室

2013年03月17日 | 登山


山形神室は仙台市との境にあり、蔵王連峰の北の端に位置する。標高1344m、トンガリ山、ハマグリ山など尾根筋に瘤のようなピークを持ち、山形の登山愛好家に親しまれている山だ。春は山ツツジをはじめ、高山植物の花が咲き誇り、6月ともなれば東斜面の笹薮にネマガリダケが採れる。

夏山は市民の登山家の足慣らしの山として登られている。冬山は、この山が風の通り道であるため、途中まで断念することが多い。金曜日が久しぶりに晴れ上がり、絶好の気象条件になったが、計画が土曜日であったので、雨マークが付き、風も8m位との予報であったのでやや不安を抱えた山行となった。

急峻な尾根筋は10本爪のアイゼンを履いた。山には春の陽気が訪れ、固雪のためアイゼンがよく機能した。この日は雪道アップダウンを約9キロ歩いたが、アイゼンは使う筋肉が違うのか、いつもより足に疲労を感じた。だが、見晴らしのきく主尾根に着くと、その眺望のすばらしさに、疲労が吹き飛んだ。



山頂の標識は雪に埋れているが、しっかり頭を出している。周囲の山々のパノラマは息を呑むような美しさだ

帰路は夏の登山コースを辿る。アイゼンが機能しているとはいえ、急峻な下りは怖い。馴れている他のメンバーが先行する。登りはさほど苦にならないが、雪山の下りはこれからも課題になる。もっと馴れる事、あるいは二本ストックも必要か。



山形神室の頂上から、仙台神室、大東岳など宮城の山々を望む。左手に月山、葉山の眺望も得られたが、写真にうまく収められない。

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梅の花

2013年03月15日 | 日記


わが家の梅の鉢に香り高い梅の花が開いた。折りしも、四国の大分では桜の開花が告げられている。今年は、関東地方でも開花が早いという。桜は寒暖の差が大きいと、早く咲く習性があるという。寒かった2月に比べて、3月は急激な温度の上昇が見られる。

梅の花は大宰府に左遷させられた菅原道真が、都の家にあった梅を思いやって詠んだ和歌が有名だ。

東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ

道真が謫居した大宰府天満宮には、飛梅伝説がある。この梅を思いやった道真を慕って、都にあった梅が飛んできて、天満宮に根付いたのだという。根を付けて木を植えるということは、当時の人々には難しいことであった。都から九州の大宰府まで、梅がどうやって移されたのか、この伝説によらずとも一大難事であったであろう。

その真偽はともかくとして、道真を祀る天満宮の境内は、梅の木で埋め尽くされている。この多数の梅の多くは、ここを参拝する人々が、奉納したものである。

道真がこの地へ流される前に、大宰府で梅の宴を開いている人がいる。大友旅人である。天平2年(730)正月13日(太陽暦2月8日頃)のことである。この時、大友旅人は正3位、66歳であった。この宴会には、山上憶良、大友宿禰ら30人もの役人が集まり、万葉集に「梅花の歌」として32首が収められている。

我が園に梅の花散る ひさかたの天より雪の流れ来るかも 大友旅人
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敵に塩を送る

2013年03月14日 | 日記


豆苗とミツバの根から出た新芽がぐんぐんと伸びる。その薄緑の新しい芽は見るからにおいしそいだ。春の気配が日一日と強くなる。昨日、3月13日は、上杉謙信の命日である。天正6年春、北条征伐への出陣の準備を進めていたが、3月9日、厠へ行って昏倒した。今日でいう脳出血である。そのまま、床についていたが、13日ついに帰らぬ人となった。

上杉謙信は5度にわたり川中島で、好敵手武田信玄と対峙したが、決着はつかなかった。謙信が川中島へ赴き、信玄と決戦を繰り返したのは、領国の拡張に執念を燃やす信玄を懲らしめるためであった。謙信にはそのような野心はなかった。領国の安泰のため、出陣は農繁期を避けた。

相模の北条氏や駿河の今川氏は信玄の領国拡張を恐れ、塩を送るのを止めた。周囲に海を持たない武田信玄は、塩がなくて困った。群雄割拠の戦国時代であれば、好敵手の困難につけいるのが例であろう。だが、信玄はそうではなかった。信玄の窮地を見て、日本海産の塩を送ることにしたのである。

3千俵の塩が糸魚川から大町、松本を経由してはるばると甲府に到着した。永禄12年冬のことであった。塩はまず市神神社に供えられたのち、住民に売り出された。この壮観を見て、謙信の両国領国のなかにおいても

贈りけん塩の色にも見ゆるかな越後の雪の清き心は

と敵への義挙がたたえられた。今日の世界戦略では、秩序を乱すものへの経済制裁などの兵糧攻めが行われているが、武将、上杉謙信はまったく違った価値観を持って、戦国時代を駆け抜けたのである。

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