暮れから年初にかけて運動らしいものをしていない。今年も山に行こうという決意で階段のトレーニングを開始する。一回目から息切れをしている。こんなことでは、あの美しい新雪に会うことはできない。5往復あたりで汗が噴出してくる。10往復で今日のトレーニングは終わる。息切れはしなくなったが、足が上がらなくなっている。
串田孫一の『山のパンセ』を読む。
「私たちにとって、新しい雪とはなんだろう。新しい雪の斜面とは一体何だろう。山は冬になると、夏や秋の一種の、情熱的ないきれをさっぱりと棄て、生命のぬくもりをもっと薄く、しかももっと鋭く生きはじめる。
私たちは滑る楽しみにも心を惹かれる。しかし更に多く、この山の、極めて高いオクターブの息づかいに触れようとする。頬に痛い横なぐりの風と雪を待ち焦がれる心を、山を愛する人々は黙って抱いている。」(1955年9月)
串田の雪山への憧れが、この文章のなかに脈打っている。ことし、どれだけ美しい雪景色を見られるであろうか。階段を一段づつ登って、足の筋肉を鍛えながらそのための準備をしよう。昨年の瀧山の雪庇は流線にながれてこの世のものとは思えないほど美しかった。だが、美しければ美しいだけ思いがけない危険も潜んでいる。