常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

新雪の山への憧れ

2014年01月04日 | 登山


暮れから年初にかけて運動らしいものをしていない。今年も山に行こうという決意で階段のトレーニングを開始する。一回目から息切れをしている。こんなことでは、あの美しい新雪に会うことはできない。5往復あたりで汗が噴出してくる。10往復で今日のトレーニングは終わる。息切れはしなくなったが、足が上がらなくなっている。

串田孫一の『山のパンセ』を読む。

「私たちにとって、新しい雪とはなんだろう。新しい雪の斜面とは一体何だろう。山は冬になると、夏や秋の一種の、情熱的ないきれをさっぱりと棄て、生命のぬくもりをもっと薄く、しかももっと鋭く生きはじめる。
 私たちは滑る楽しみにも心を惹かれる。しかし更に多く、この山の、極めて高いオクターブの息づかいに触れようとする。頬に痛い横なぐりの風と雪を待ち焦がれる心を、山を愛する人々は黙って抱いている。」(1955年9月)

串田の雪山への憧れが、この文章のなかに脈打っている。ことし、どれだけ美しい雪景色を見られるであろうか。階段を一段づつ登って、足の筋肉を鍛えながらそのための準備をしよう。昨年の瀧山の雪庇は流線にながれてこの世のものとは思えないほど美しかった。だが、美しければ美しいだけ思いがけない危険も潜んでいる。
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寒雀

2014年01月04日 | 漢詩


散歩に行くと雪の消えたところの寒雀が群がっている。チチチッとあたりの枯れ草をわけるように餌を漁ったかと思うと、人が近づいたとことに感づいてパッと木の枝に飛び移る。近年数が減少したのか、あまり見ることも少なくなってきたが、厳しい冬に堪えるように羽をふくらませている姿に親しみを覚える。

寒雀ゆふべの羽音おほきかり 白雨

この寒雀の短い時間の動きを捉えた漢詩がある。南宋の詩人楊万里の作である。唐詩に親しみを覚えその手法を取り入れたが、その真髄は自由にして闊達な新詩風であった。

 寒 雀   楊万里(南宋)

百千寒雀下空庭  百千の寒雀空庭を下り

小集梅梢話晩晴  梅梢に小集して晩晴を話す

特地作団喧殺我  特地に団を作して我を喧殺す

忽然驚散寂無声  忽然として驚き散じ寂として声無し

この詩を詠んでいると、空き地に遊ぶ雀の群れが遊ぶ姿が手に取るように浮かんでくる。雀たちがあたかも人の群れのように、晴れ間を喜び語らっている。人と自然の小鳥の間に距離がなく共存して生きていた様がうれしい。自然を破壊しつくしている中国の現代文明とはかくも隔たった世界である。


 
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