この言葉は、そばに人がいないように我がままに振舞う、という意味に使われている。だがこの使い方は、言葉の本来の意味からは少し外れたものだ。秦の始皇帝暗殺に刺客として送りこまれた荊軻にまつわる故事に由来する言葉であることは、もう忘れ去られている。燕の国にいた荊軻は筑(弦楽器)の名手高漸離と飲み友達であった。
荊軻には酒を飲むと、歌を唄うのが好きであった。酒が進むにつれて、高が筑を弾き、荊軻が大声で唄う。今のカラオケのような盛り上がりだ。さらに最高潮に達すると、二人は抱き合い感極まって泣き出してしまうのが常であった。荊軻には泣き上戸の癖があった。この場の様子を述べたのが傍若無人である。
中国史の碩学、宮崎市定はエセーに「旁若無人のすすめ」にこの言葉の本当の意味を書いている。「別に他人に迷惑をかける所業でもなく、ましてや不道徳の要素も含まず、ただ自由にのびのびと行動する。それこそ旁若無人に自己の主張をぶちまけて、世人に喝采を叫ばしむようにありたいものだ」つまり、人の迷惑を省みず、自分勝手な行動をすることとはまったく真逆な意味を含んでいる。
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