甲州、現在の山梨県は周囲が海に接しない数少ない県である。ここへ塩を運ぶにはひと苦労である。富士川の舟運が開けるまでは、海沿いの製塩地からいくつもの山道を人の背や馬に乗せて運ぶよりなかった。人が生きるために塩が必需品であることは言うまでもないが、今日のように物流が発達しない時代では、その国の盛衰に直結していた。
戦国時代において武田信玄の力を恐れた近隣の諸国が、その力を封じこめるために塩の道を封鎖し武田領民に塩欠乏を引き起こす作戦にでた。この戦略はたしかに武田勢を苦しめたが、反面領民と武田軍が一体となり、死を恐れぬ戦いに駆り立てる契機ともなった。塩の道を絶つことを、武将としてあるまじきこととしたのが、信玄の仇敵上杉謙信である。
「敵に塩を送る」という話は戦国の美談として語られてきた。謙信の信玄に送った書状に「卿と我と争うことは弓箭にあり。何ぞ米塩にあらんや。今より商賈を通じて給するに北海の塩を以てせん請う之を取れ」と書いた。この話は謙信の人柄を称揚しようとする後世の作ったものとする説も行われているが、甲州には南から入る塩の道のほかに北からの道があったことの証左でもある。
九月十三夜 上杉謙信
霜は軍営に満ち 秋気清し
数行の過雁 月三更
越山併せ得たり能州の景
さもあらばあれ家郷遠征を憶ふと
越後の山々の連綿として連なる山容は、深い雪のなかでその威容を誇る。能登の七尾城を攻め落として、能登の景観と越後の山容を併せて我がものとした謙信の軍営における述懐である。越後から遥々と能登まで遠征した謙信の軍は、勝利のあと月の出る海浜に静かに夜営した。
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