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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

小食は長生きのしるし

2014年01月26日 | 日記


正月に贅沢なものをたらふく食べた訳ではないが、体重が増えた。どうしても寒いと戸外に出る機会も少なく、パソコンに向かってつい運動不足になり、結果としてう体重が増えてしまうのだろう。

オランダに世界的な名医ベールハーフェ博士がいた。博士は死ぬ間際に「門外不出の長寿の秘法」を遺言に残した。博士の遺族は博士の言いつけに従い、遺書を鉄の箱に密封にて屋敷内に埋めた。どこから漏れたのか、この遺書の存在がヨーロッパ中に広まり、イギリスの大金持ちが全財産を投げ出して、この鉄の箱を買い取った。

この金持ちが買い取った鉄の箱を開けてみた。なかを見てびっくり、小さな紙片が一枚だけ。その紙には、たった2行のことばが書かれてあった。
第1条 頭を冷たく足を暖かく。 第2条 お腹にものを入れ過ぎぬこと。この大金持ちは期待した秘法がこんな2行であったことを知り、怒って紙を破り捨てたのでは、大方の人が想像している。

だが世界的な名医が書き残しただけのことはあり、この大金持ちがこの2行を実行していれば
彼の望んだ長寿は保障されたであろう。ある新聞社が実施した100歳以上の長寿者から長生きの秘訣を聞いたアンケートがある。それによれば、①食べ物に気をつけること ②腹八分目の食事 ③物事にくよくよしない ④早寝早起き ⑤仕事に無理しない ⑥食べ物に好き嫌いをしない という結果である。博士の遺言と大差はない。


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窓から見える山

2014年01月25日 | 登山


朝8時の気温7℃。一月にしては思わぬ陽気だ。ただし、曇り、時おり小雨がぱらつく。今日は、上山の三吉山と葉山に登る。この山はベランダから毎朝眺める山だ。今月はいづれも窓から見える山ばかりに登っている。寒気が強かった割には雪は少なく、三吉山の頂上まではつぼ足、その先の稜線からカンジキを履く。頂上にある神社へ参拝するためか、雪が踏み固められている。所々が氷っているので、滑って転ばぬように注意しながら登る。頂上からは国道13号の西に上山の市街地と温泉が小箱中身を撒き散らしたように見える。その先は、里の山々が犇くように並んでいる。山の雪はとけて、なにか春がすぐそこにきているような雰囲気である。



頂上の三吉神社は天保4年松平城主時代の創建である。梵鐘や古い建築の休憩所がいかにも時代を感じさせる趣だ。神社の由来を見ると、この神社を立てる前年は飢饉、大風のため疫病が流行し領民は苦しみ抜いた。伝えられる天保の飢饉である。領民の代表が秋田の太平山にある三吉神社に祈願したところ、疫病の流行が治まったため、この神社をこの地に勧請いたものであるという。

上山市金瓶に棲んでいた歌人の斉藤茂吉も朝夕この山を眺めていた。茂吉の父は長男が日露戦争に従軍したため、その武運長久を祈るために、この神社に日参するのを欠かさなかったという。金瓶のからこの山頂までは少なく見積もっても徒歩では2時間を越える。並大抵の祈願ではない。その意志の強さは驚くほかない。

をさなくて見しごと峯のとがりをる三吉山は見れども飽かず 茂吉



茂吉が飽かずに眺め、その父がお百度参りをした三吉山は今朝朝日を受けてきれいに見えた。

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弘法大師伝説

2014年01月24日 | 日記


すっかり寒気につつまれていた気候も、昨日あたりから青空が見えはじめ、今日は気温が10℃くらいまで上がるらしい。東の郊外にある小高い公園に散歩に行ってみた。やはり雪道は夏の散歩にくらべるとかなり体力をつかう。息を切らしながらついた丘には、だれが作ったのか小さな雪達磨があった。雪のなかについた足跡で、少しはここを訪れる人もあるようだ。

ドイツのジージさんからブログにコメントがあった。弘法大師の「弘法は筆を選ばず」という諺について知りたい、とのことであった。最近になってこのブログも読む人が少し増えているような気がするが、コメントを寄せられることは滅多にない。せっかくのコメントで期待に応えたいが、空海という巨人について人に語るほどの知識は持ち合わせていない。本棚から、空海に関連したもの探し出して少し書いてみる。

もう30年も前に司馬遼太郎の『空海の風景』を読んだことがある。その当時の社会背景や、その後の日本仏教を代表する空海と最澄の鬩ぎ合いが書かれていたように思うが、細部の記憶はすでに埋もれてしまっている。ただこの二人は貴族たちが競って社寺を建立し、それを権力の象徴とする風潮に抗して、山岳に建てた小さな堂にこもって修行を積み、仏教の真髄を極めようとしていた。

空海の修行は山間で行われたため、人に知られず山林や田畑で働く人のあいだに伝説化された話が多く残っている。その中には、水に困っている農民に願いに錫杖を地面につき立てるとそこに清水がこんこんと湧き出したといういわゆる独鈷水伝説は全国に5000以上を数えるという。また空海は書家としても、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆に数えられ、筆にまつわる伝説も複数ある。

「弘法も筆の誤り」とは、弘法大師が大内裏の扁額の揮毫を頼まれ、「応天門」の「応」の字の上の点を書き忘れてしまった。大師は扁額を降ろさずに筆を投げて点を書き加えた。これを見た人々は、さすが弘法大師と称賛を惜しまなかったという。「弘法は筆を選ばず」はどんな筆でも立派な字を書いたいう伝説だが、弟子の書いた大師の生い立ちには、貧しさのため筆を選ぶことできず上手に書けないことを悔やんだとの記載もある。

「護摩の灰」というのは、弘法大師が焚いた護摩の灰だからご利益があると売り歩くものがいた。これは大抵偽物であったため、旅人の懐を狙う泥棒を護摩の灰と呼ぶようになったという話もある。


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傍若無人

2014年01月23日 | 日記


この言葉は、そばに人がいないように我がままに振舞う、という意味に使われている。だがこの使い方は、言葉の本来の意味からは少し外れたものだ。秦の始皇帝暗殺に刺客として送りこまれた荊軻にまつわる故事に由来する言葉であることは、もう忘れ去られている。燕の国にいた荊軻は筑(弦楽器)の名手高漸離と飲み友達であった。

荊軻には酒を飲むと、歌を唄うのが好きであった。酒が進むにつれて、高が筑を弾き、荊軻が大声で唄う。今のカラオケのような盛り上がりだ。さらに最高潮に達すると、二人は抱き合い感極まって泣き出してしまうのが常であった。荊軻には泣き上戸の癖があった。この場の様子を述べたのが傍若無人である。

中国史の碩学、宮崎市定はエセーに「旁若無人のすすめ」にこの言葉の本当の意味を書いている。「別に他人に迷惑をかける所業でもなく、ましてや不道徳の要素も含まず、ただ自由にのびのびと行動する。それこそ旁若無人に自己の主張をぶちまけて、世人に喝采を叫ばしむようにありたいものだ」つまり、人の迷惑を省みず、自分勝手な行動をすることとはまったく真逆な意味を含んでいる。

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柄井川柳

2014年01月22日 | 


今も行われている笑いに主題を置いた俳句形式を川柳という。この名称は前句付けの点者であった柄井川柳の名をとったものだ。江戸時代に流行した前句付けから川柳が生まれた。点者とは、付け句を募集し、応募句を選ぶ宗匠のことだ。例えば、

障子に穴を明くるいたづら

という前句を出して、これに5・7・5の句を付けさせる。応募には投句料を集め、選ばれた句には賞品や賞金をつけた。この前句を見て、ある人が次のように付けた。

這えば立て立てば走れと親心

障子に穴を開けられば、誰もが腹を立てるだろう。だが、これを親心の視点で見れば、子どものいたづらに目を細める笑いの場が開ける。そのため、この付け句は江戸中の称賛を浴びた。川柳が点者だった33年間の応募句は230万句を数えたいうからいかに人気が高かったが分かる。それに伴い、点者の収入もまた莫大であった。

柄井川柳は享保3年(1718)、浅草新堀端、龍宝寺前の名主の家に生まれ八右衛門といった。前句付けは元禄のころから行われていたが、川柳が句を募集したのは、宝暦7年(1757)8月のことで、江戸の人を限定したものであった。その特徴は、滑稽を主題にしたために人気を博し、宝暦12年には、応募句が1万句を越えた。

木枯やあとで芽をふけ川柳 柄井 川柳

寛政2年(1790)9月23日、川柳は病を得て没した。73歳であった。この句は川柳の辞世である。川の柳の生命力の強さに目をつけたいかにも川柳にふさわしい句である。川柳がいまなお生命を維持していることからも、この辞世の句に逞しい力を感じる。


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