すっかり寒気につつまれていた気候も、昨日あたりから青空が見えはじめ、今日は気温が10℃くらいまで上がるらしい。東の郊外にある小高い公園に散歩に行ってみた。やはり雪道は夏の散歩にくらべるとかなり体力をつかう。息を切らしながらついた丘には、だれが作ったのか小さな雪達磨があった。雪のなかについた足跡で、少しはここを訪れる人もあるようだ。
ドイツのジージさんからブログにコメントがあった。弘法大師の「弘法は筆を選ばず」という諺について知りたい、とのことであった。最近になってこのブログも読む人が少し増えているような気がするが、コメントを寄せられることは滅多にない。せっかくのコメントで期待に応えたいが、空海という巨人について人に語るほどの知識は持ち合わせていない。本棚から、空海に関連したもの探し出して少し書いてみる。
もう30年も前に司馬遼太郎の『空海の風景』を読んだことがある。その当時の社会背景や、その後の日本仏教を代表する空海と最澄の鬩ぎ合いが書かれていたように思うが、細部の記憶はすでに埋もれてしまっている。ただこの二人は貴族たちが競って社寺を建立し、それを権力の象徴とする風潮に抗して、山岳に建てた小さな堂にこもって修行を積み、仏教の真髄を極めようとしていた。
空海の修行は山間で行われたため、人に知られず山林や田畑で働く人のあいだに伝説化された話が多く残っている。その中には、水に困っている農民に願いに錫杖を地面につき立てるとそこに清水がこんこんと湧き出したといういわゆる独鈷水伝説は全国に5000以上を数えるという。また空海は書家としても、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆に数えられ、筆にまつわる伝説も複数ある。
「弘法も筆の誤り」とは、弘法大師が大内裏の扁額の揮毫を頼まれ、「応天門」の「応」の字の上の点を書き忘れてしまった。大師は扁額を降ろさずに筆を投げて点を書き加えた。これを見た人々は、さすが弘法大師と称賛を惜しまなかったという。「弘法は筆を選ばず」はどんな筆でも立派な字を書いたいう伝説だが、弟子の書いた大師の生い立ちには、貧しさのため筆を選ぶことできず上手に書けないことを悔やんだとの記載もある。
「護摩の灰」というのは、弘法大師が焚いた護摩の灰だからご利益があると売り歩くものがいた。これは大抵偽物であったため、旅人の懐を狙う泥棒を護摩の灰と呼ぶようになったという話もある。
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