常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

村上春樹『品川猿』

2016年01月04日 | 読書


村上春樹の短編の「東京奇譚集」に『品川猿』というのがある。干支にふさわしい読み物として新年の最初に読んだ。東京で自動車販売店の事務員として働いている安藤みずきは、自分の名前を思い出せないことが、しばしば起きるようようになった。老人性の物忘れであればさほど珍しいことでもないが、彼女の場合、ほかのことでは忘れるということがないのだ。自分の名に限って、出てこない。電話で話して最後に、ところでお名前をお聞かせください、言われて記憶が飛んでしまう。デパートで買い物をして、寸法を書き入れたりして「お名前は」と聞かれても、やはり出てこない。

この奇譚では、下水道隠れて住んでいた猿が不思議を引き起こしている。みずきが秘密にしてしまっていた学生時代の後輩の名札と自分の名札を猿が盗んだために、名前を忘れるということが起きた。猿は人間の言葉を語り、みずきの心の闇さえを読み解いてしまう。後輩は名札をみずきに預けたまま自殺するのだが、その前日みずきに、「嫉妬の感情を経験したことがありますか」という問いかけをした。みずきは、そんな経験は一度もない、言っている。みずきは、人間であれば誰もが持つ感情を、心から消し去っていたのだ。品川猿は、その心の負の部分を言い当てる。「だからあなたは、誰かを真剣に、無条件で、愛することができなくなってしまった。」

猿から名札を取り返すことによって、みずきははじめて自分を取り戻した。それは名前を忘れるという現象にとどまらず、自分の存在さえも喪失していく危険から救われたのである。村上春樹の小説には動物がしばしば登場する。昔話や童話の世界では、動物は自由に人間の言葉を話している。この短編には、村上の小説世界が、鮮明に描き出されている。


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源実朝

2016年01月03日 | 百人一首


鎌倉幕府三代将軍源実朝の歌が、藤原定家により百人一首に採られている。詠み手とされているのは、鎌倉右大臣である。右大臣に叙せられるのは、実朝は弱冠28歳であった。しかもその年、鶴岡八幡宮で甥である公暁のために暗殺された。鎌倉の武家に育った実朝は、歌の道を志し14歳のとき、藤原定家の門に入り、貴重な歌書を送られて勉強に励んだ。

世の中は常にもがもななぎさ漕ぐ蜑の小舟の綱手かなしも 鎌倉右大臣

父の頼朝はすでにこの世になく、鎌倉の実権は北条時政らの手中へ移行しつつあった。2代将軍は北条氏により伊豆へ移され、実朝が3代将軍となるが、もはや孤立した存在であった。孤立が深まるほどに、歌や蹴鞠などの雅の道へのあこがれを強めていく。定家の教えは、「古きを慕い、新しきを求める」歌の道であった。

定家自身、時代の流れのなかで、「世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず。紅旗征戎吾が事にあらず」と日記に記したように、世上の出来事と歌の道を切り離して追及した姿勢は、実朝の孤独な身に響くものがあったに違いない。

大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも 実朝

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ 実朝

すでに京都で行き詰まりを見せ、連歌が持て囃される時代に、若き実朝の歌は定家の胸に響く境地を開いていた。それ故にこそ、実朝の歌が百人一首の歌のなかに残り、今日誰もが接することのできる幸運がある。

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沼の辺

2016年01月02日 | 日記


山形市の鈴川地区にある沼の辺池は、灌漑用水が不足する鈴川地区の農家の悲願でできた貯水池である。昭和18年から5年の歳月をかけてできた竣工した大規模な池だ。周囲には桜を植え、事務所を作って、貸しボートを営業し、氷室という珍しい施設も作られた。私は昭和34年に山形に来たが、友人とボート遊びに来たことを懐かしく覚えている。当時のボート遊びには、近隣の学校の生徒たちや若者が大勢やってきて賑わっていた。今はその面影もなく、静かな水の辺に、釣りを楽しむ人々の憩いの場となっている。

元日にこの池の辺に行って見たが、10人ほどの釣り人が、それぞれの狙うポイントに散りばって無心に竿を振っていた。寒べらを狙うのだろうか、4℃くらいの気温のなかで、じっと水面を見ている姿からは、魚との駆け引きで楽しんでいる喜びが伝わってきた。池の辺に、結城健三の歌碑が建っていた。

山桜咲くときにして小鳥らも声ちりぢりに峡(かい)いづるべし

結城健三は、南陽市宮内に生まれた歌人であるが、北原白秋の「日々歌壇」に投稿して、入選の常連となった。山形で新聞記者をしながら歌を詠み続けた。

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猫の正月

2016年01月01日 | 読書


漱石の『吾輩は猫である』には、明治の正月風景が書かれている。親にはぐれて迷子になった子猫を飼うことになったのは、学校の先生の家であった。子猫は家の人々にには、不評であった。猫君は飼ってくれた先生を慕って、膝の上に上って暮らすのが日課になった。ある年の元日、先生の手元に一通の年始状が送られてきた。「恭賀新年 恐縮ながらかの猫へもよろしく御伝声願い上げ奉り候」とあったので、主人はちらと猫を見たが黙ったままだ。

寒月という客がくる。年始の挨拶だが、口取りには蒲鉾が出される。欠けた歯で蒲鉾を食いながら、二人は他愛ない世間話をしているが、連れ立って散歩に出かける。根津、上野、神田辺だが、そこで見たのは、待合の前で、芸者が裾模様の晴れ着を着て、羽根つきをしているところだ。先生は感想に「衣装は美しいが顔はまずい。なんとなくなくうちの猫に似ている」と書いたのものだから、猫君は憤慨した。

先生の家では雑煮で新年を祝ったが、胃弱の先生は雑煮を椀のなかに食い残した。猫君は、餅を食ったことがないので、誰もいない台所で餅を食ってみた。角のところを一寸ばかり食い込んだ。たいがいのものは、これかみ切れるのだが、餅はそうは問屋が卸さない。猫君が餅を取ろうと大暴れするのを、子どもが見つけて「あら猫がお雑煮を食べて踊りを踊っている」と言ったものだから、家じゅうの人が見物に集まってきた。みんな大笑いである。猫君の窮地も知らず、囃したり、笑ったり。見かねた主人が「餅をとってやりなさい」のひと言で一件落着。今日にも、明治の正月風景は少なからず残っているような気がする。
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元日の風景

2016年01月01日 | 日記


あかましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

屋根や駐車場にうっすらと雪が積もりましたが、風もなく薄日がさして、穏やかな元日です。雑煮で最初の朝食を終えて初詣にでかけるところです。

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