常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

シクラメン

2016年01月08日 | 


サクラソウ科。地中海原産の多年草で、ヨーロッパでも人気のある花である。暖かい日のあたる場所で管理する。水やりは球根に水があたらないように注意する。

夕はやく戸をさし固めうらやすし灯の真下なるシクラメンの花 吉野 秀雄
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四時の歌

2016年01月08日 | 漢詩


陶淵明の詩に「四時の歌」というのがある。この詩は、淵明以後の中国や日本の季節感に大きな影響を与えた詩だ。

 四時歌 四時の歌 陶淵明

春水満四沢 春水 四沢に満ち

夏雲多奇峰 夏雲 奇峰多し

秋月楊明輝 秋月 明輝きを揚げ

冬嶺秀孤松 冬嶺 孤松秀ず

通釈すれば、春は水が四方の沢に満ち、夏の入道雲が峰の奇観のようだ。秋の月は明るく輝いて空にかかり、冬枯れの嶺には松の緑がひときわ目立つ。と、いうことになる。春夏秋冬を、その季節を代表する風物で象徴した詩である。

春と水。一般的には春は花で代表することが多いが、古くは氷が融けて、水が溢れ生命を育むものが置かれる。古今集に「谷風にとくる氷のひまごとにうち出る波や春の初花」というのもあり、春は先ず氷がとけて水が温み、その後に花が咲くということになる。

夏は雲。これは入道雲である。芭蕉が「雲の峰いくつ崩れて月の山」と詠んだように、夏の象徴として広く受け入れられている。さらに秋と月も、漢詩は和歌に詠まれることは多い。

冬に松を持ってきているのは、古くは『論語』に見られる。「歳寒くして松柏の凋むに後るるを知る」この松の冬にも緑を残すことへの畏敬は、やはり中国や日本の古くからある自然観の原型であるのではないか。この詩は、ことしの、日本詩吟学院の独吟コンクールの課題吟になっている。

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七草粥

2016年01月07日 | 日記


中国の風習では、正月7日を人日として、占いを行い晴れは幸いがあり、曇りは災いがあるとした。戸外を見ると、曇りだからさしづめ今年はいい年ではないらしい。人日の前は、家畜を割り当てた。1日鶏、2日犬、3日豚、4日羊、5日牛、6日馬の日とし、その日にはそれぞれの家畜は殺さず、人日には罪人の処刑は行わなかった。この日には、萌え始めた7種の若菜を摘み、粥にして食べるのが七草粥である。七草とは芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろで、新暦ではまだ手に入らないものばかりなので、なずなだけ入れるのが多いらしい。

薺粥箸にかからぬ緑かな 高田 蝶衣

この日は、一家の主婦は張り切って早起きをして、前日に用意しておいた野菜をなま板に乗せ、トントンと包丁の音も高く、口には囃し歌を歌いながら七草を刻んだ。「七草、なずな、唐土の鳥が、日本の橋を渡らぬ先に、ストトントントン」と調子をつけて、野菜を刻むのがかつてのならわしであった。我が家でも20年くらい前には、七草粥を食べた記憶はあるが、最近では絶えてない。因みに今朝は、今年はじめての朝カレーであった。
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小寒

2016年01月06日 | 日記


雪のない正月。小寒の声を聞いて少し寒さが戻ったような気がする。それにしても、ベランダの梅の蕾は膨らみ、パセリの葉は成長を続けている。植物とは気温に応じて、葉を伸ばし、花を咲かせるということが、小さなベランダの鉢たちを見ていて分かる。季節感を失ったこの冬であるが、小寒から15日経つと大寒となり、さらに15日で節分となる。今年はどんな季節を経て、春を迎えることになるのであろうか。

土牀煙足りて紬衾暖かに

瓦釜泉乾きて豆粥新たなり

北宋の詩人楊時が、この季節を詠んでいる。土牀とは土間の下に煙を通す暖房で、オンドルのことである。その上の紬の布団は暖かである。釜のなかの豆粥は、すっかり水分がなくなって煮あがっている。小寒の季節は、中国でも北の地方の人々はこんな風に寒をしのいでいた。暖冬に加えて、暖房設備の進化している現代の人々には、小寒や大寒があらわす季節感は遠いものなっている。
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室生犀星 俳句

2016年01月05日 | 


俳句にはドラマがある。室生犀星の長女朝子が生まれたのは、大正12年8月27日のことである。東京の田端で生まれたが、その5日後、関東大震災が襲った。一家は辛うじて震災の被害を免れたものの、混乱する東京を引上げ、犀星の故郷金沢へ疎開した。一時母の実家に仮寓するが、川岸町の借家で、一年余りを過ごした。

雪みちを雛箱かつぎははが来る 室生 犀星

この句が詠まれたのは、大正13年の春で朝子の初節句のときである。孫の初雛を祝うべく、雛人形の入った箱を背負って、借家にやってきたのである。生後6ヶ月ほどの朝子が分かるはずもないが、疎開で暗い気持ちでいた一家に、ぱっと花が咲いたような華やぎが訪れた。犀星夫婦も、この心遣いに、驚きを、それにもまして喜びをかくせない。

朝子が生まれる半年前には長男を亡くしていた犀星は朝子を可愛がった。翌年には、一家は田端の旧家に帰るが、そこで長女の成長を見守った。

桃つぼむ幼稚園まで附きそひし 犀星

家を出て幼稚園へ向かう朝子と話しながら歩くのだが、好奇心の強い子どもと会話をしているうちに幼稚園まで来てしまったという、微笑ましい光景である。犀星が書いた小説『杏っ子』は、朝子をモデルにしている。通っていた幼稚園は、芥川龍之介の長男たかしと同じ幼稚園で、朝子はたかしと連れ立って幼稚園に通った。
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