
森本康則氏が個展の写真展をされていると知ってぶらり散歩がてらに寄ってみる。
展示会場は知人の豊田定男さんが織りなす「奈良いまむかし」展をしていたアートスペース上三条。
平成25年の6月4日だった。
場所はわかり難く往生したことがあった。
今回は2度目。
それでもあれから4年も経っている。
町の移り変わりは早く感じる。
あの狭い通路のようなところに入る口はどこだろうか。
たぶんここらであろうと思った地にタイムパーキングが見つかった。
以前はたしかなかったような気がする。
駐車しようとすればこれまた知人の写真家Kさんが歩道を歩いていたところに遭遇。
タイミングは30秒もズレておれば遭遇することのない、これを奇遇としか言いようのないタイミングである。
これから個展に、といえばご一緒しましょうということで会場にあがる。
そこにおられた森本康則氏。
1カ月半も入院に体重は10kgの減量。
ほっそりとされたが穏やかな面立ちはいつもお会いするときと同じだ。
温かみのお声で優しく喋られる、あの雰囲気は他の人には見られない魅力をもっている。
私もそうでありたいと思うが、無理なことである。
実は森本康則氏とはお会いしてお話しをしたのは平成27年5月3日に観覧させてもらった第20回水門会写真展のときである。
氏との繋がりはもっと以前である。
繋がりのキカッケを作ってくれた写真は一枚。天理市の大和神社で斎行されるちゃんちゃん祭りの一コマである。
その写真は「県政だより奈良 2005.4月号 第226号」に掲載された。
平成17年のことだから、今から12年も前のこと。
掲載された写真は私が撮った原画とまったく同じ。
こんなことってあり得るのだろうか。
答えを知りたくて県庁広報課に向かった。
応対してくださった広報課職員のKさん。
その写真は大和神社宮司から提供されたのが事実であるとわかった。
後日、訪れてそのことを尋ねた宮司さんは、県より掲載写真の提供を願われて、神社にあった写真を渡したというのだ。
えーっ、である。
過去、撮らせてもらった写真はできる限り、お礼として取材地にさしあげている。
その写真を渡したというのだから、間違いなく私に著作権がある。
HPにも書いたが、逆に名誉なことなので広報課の了解をえて「ならグルグル散歩」に紹介することにした。
そのことをきっかけに発展した「県政だより奈良」の写真掲載。
広報課から正式にお願いされての祭り・行事写真の掲載に一役買っていただいたのが森本康則氏だった。
直接はお会いしなかったが、候補写真の何枚かを広報課に提供した。
その中から選んでくださった選者であった。
そのときの写真は川上村烏川の弓始式を筆頭に、御所市鴨都波神社のススキ提灯などがある。
それからさらに発展した県からの依頼は平城遷都1300年祭を記念に発刊された『奈良・大和路まほろば巡礼』であった。
このときも写真監修をされたのが森本康則氏だった。
そんな経緯によって繋がっていた氏と初めてお会いして喋ったのが、先に挙げた第20回水門会写真展のときだった。
私の思い出はそういうことだが、監修をしてくださったおかげで今日の私がある。
いわば先生みたいなもので、今でも感謝している。
さて、写真展は氏が県内のあらゆる所に目を向けて撮ってきた「大和の一本桜」。
私も県内各地の一本桜や美桜を求めて探し回ったことがある。
見慣れた桜もあれば、ここってどこと思えるような桜もある。
穏やかな人物が穏やかな作風で写真を仕上げた「個展」に魅了される。
私が気に入っている桜にこんなのもありますって伝えたら、是非、来春にでかけてみたいと話していた。
個展より半年前の平成28年10月である。
氏がFBをされていると聞いてリクエストさせてもらった。
繋がった私のFBにコメントしてくださったのは平成28年11月4日。
その返事に「桃香野でもっとお話ししたかったのですが、隣村の行事取材の時間に追われていて失礼しました。行事のあれこれを写真に収めるだけでは限界を感じます。何年か前に民俗芸能調査員を委嘱されたこともあってより一層、所作の動きが気になりますね」を送った。
平成28年の10月23日に訪れた奈良市月ヶ瀬の桃香野の伝統行事に出会ったときのことである。
返答したコメントにコメントを返してくださる。
そのときの私の返答は「10年ほど前のことですが、『県政だより 奈良』の表紙写真を厳選してくださったのですから、私にとってはやはり先生ですょ。また、どこかでお会いしたいものです」。
そうしてお会いした個展であった。
実質はたった3度のリアルな出合いの写真談義が嬉しかった。
それから半年後の平成29年9月24日に訃報が届く。
直接ではなく、知人のNさんがFBに投稿した文章が気になる。
もしか・・、と思っていた翌日の9月25日。
電話の発信者は写真家のKさん。
主たる目的は撮影協力の願いだ。
通しで5日間のビデオ撮り。
それにはスチル写真が要るとのこと。
5日間のうち、この日は身体が空いていますか、という電話だった。
その日の夕刻は近々に取材の許諾をしてもらった伝統的民俗行事の取材が決まっている。
決まったのは前日のことである。
早朝からの行事もあったが、それは断った。
いや、断るというよりも行きたいな、と伝えてはいても確約ではないから、断念である。
なんせ行事が一番多いとされる10月の第二日曜日。
困ったものである。
そのKさんに森本さんの名を出した。
実は今から葬儀が始まるということだ。
心配されたことが現実になってしまった。
もう一度会って写真談義をしたかったが叶えられることはない。
突然の葬儀知らせに泣いてしまった。
氏の誕生日は4月4日。
私の方が3カ月早く生まれた同年生。
今でも病いを抱えている私より先に逝ってしまった。
合掌。
写真展から1年後。
逝去されてから半年後。
森本康則さんのFBは生きていたが・・・。
FBが伝える平成30年4月4日の一日前。
「・・誕生日を祝いましょう」のメッセージに反応する人は現れない。
天国に逝ってしまった森本康則さんも応えてくれない。
逝去されて半年間。
どうか天上で見守っていただきたく、FBも「友達から削除」を押して、合掌。
(H29. 4.12 SB932SH撮影)
(H29. 9.25 追記)
(H30. 4. 6 追記)
展示会場は知人の豊田定男さんが織りなす「奈良いまむかし」展をしていたアートスペース上三条。
平成25年の6月4日だった。
場所はわかり難く往生したことがあった。
今回は2度目。
それでもあれから4年も経っている。
町の移り変わりは早く感じる。
あの狭い通路のようなところに入る口はどこだろうか。
たぶんここらであろうと思った地にタイムパーキングが見つかった。
以前はたしかなかったような気がする。
駐車しようとすればこれまた知人の写真家Kさんが歩道を歩いていたところに遭遇。
タイミングは30秒もズレておれば遭遇することのない、これを奇遇としか言いようのないタイミングである。
これから個展に、といえばご一緒しましょうということで会場にあがる。
そこにおられた森本康則氏。
1カ月半も入院に体重は10kgの減量。
ほっそりとされたが穏やかな面立ちはいつもお会いするときと同じだ。
温かみのお声で優しく喋られる、あの雰囲気は他の人には見られない魅力をもっている。
私もそうでありたいと思うが、無理なことである。
実は森本康則氏とはお会いしてお話しをしたのは平成27年5月3日に観覧させてもらった第20回水門会写真展のときである。
氏との繋がりはもっと以前である。
繋がりのキカッケを作ってくれた写真は一枚。天理市の大和神社で斎行されるちゃんちゃん祭りの一コマである。
その写真は「県政だより奈良 2005.4月号 第226号」に掲載された。
平成17年のことだから、今から12年も前のこと。
掲載された写真は私が撮った原画とまったく同じ。
こんなことってあり得るのだろうか。
答えを知りたくて県庁広報課に向かった。
応対してくださった広報課職員のKさん。
その写真は大和神社宮司から提供されたのが事実であるとわかった。
後日、訪れてそのことを尋ねた宮司さんは、県より掲載写真の提供を願われて、神社にあった写真を渡したというのだ。
えーっ、である。
過去、撮らせてもらった写真はできる限り、お礼として取材地にさしあげている。
その写真を渡したというのだから、間違いなく私に著作権がある。
HPにも書いたが、逆に名誉なことなので広報課の了解をえて「ならグルグル散歩」に紹介することにした。
そのことをきっかけに発展した「県政だより奈良」の写真掲載。
広報課から正式にお願いされての祭り・行事写真の掲載に一役買っていただいたのが森本康則氏だった。
直接はお会いしなかったが、候補写真の何枚かを広報課に提供した。
その中から選んでくださった選者であった。
そのときの写真は川上村烏川の弓始式を筆頭に、御所市鴨都波神社のススキ提灯などがある。
それからさらに発展した県からの依頼は平城遷都1300年祭を記念に発刊された『奈良・大和路まほろば巡礼』であった。
このときも写真監修をされたのが森本康則氏だった。
そんな経緯によって繋がっていた氏と初めてお会いして喋ったのが、先に挙げた第20回水門会写真展のときだった。
私の思い出はそういうことだが、監修をしてくださったおかげで今日の私がある。
いわば先生みたいなもので、今でも感謝している。
さて、写真展は氏が県内のあらゆる所に目を向けて撮ってきた「大和の一本桜」。
私も県内各地の一本桜や美桜を求めて探し回ったことがある。
見慣れた桜もあれば、ここってどこと思えるような桜もある。
穏やかな人物が穏やかな作風で写真を仕上げた「個展」に魅了される。
私が気に入っている桜にこんなのもありますって伝えたら、是非、来春にでかけてみたいと話していた。
個展より半年前の平成28年10月である。
氏がFBをされていると聞いてリクエストさせてもらった。
繋がった私のFBにコメントしてくださったのは平成28年11月4日。
その返事に「桃香野でもっとお話ししたかったのですが、隣村の行事取材の時間に追われていて失礼しました。行事のあれこれを写真に収めるだけでは限界を感じます。何年か前に民俗芸能調査員を委嘱されたこともあってより一層、所作の動きが気になりますね」を送った。
平成28年の10月23日に訪れた奈良市月ヶ瀬の桃香野の伝統行事に出会ったときのことである。
返答したコメントにコメントを返してくださる。
そのときの私の返答は「10年ほど前のことですが、『県政だより 奈良』の表紙写真を厳選してくださったのですから、私にとってはやはり先生ですょ。また、どこかでお会いしたいものです」。
そうしてお会いした個展であった。
実質はたった3度のリアルな出合いの写真談義が嬉しかった。
それから半年後の平成29年9月24日に訃報が届く。
直接ではなく、知人のNさんがFBに投稿した文章が気になる。
もしか・・、と思っていた翌日の9月25日。
電話の発信者は写真家のKさん。
主たる目的は撮影協力の願いだ。
通しで5日間のビデオ撮り。
それにはスチル写真が要るとのこと。
5日間のうち、この日は身体が空いていますか、という電話だった。
その日の夕刻は近々に取材の許諾をしてもらった伝統的民俗行事の取材が決まっている。
決まったのは前日のことである。
早朝からの行事もあったが、それは断った。
いや、断るというよりも行きたいな、と伝えてはいても確約ではないから、断念である。
なんせ行事が一番多いとされる10月の第二日曜日。
困ったものである。
そのKさんに森本さんの名を出した。
実は今から葬儀が始まるということだ。
心配されたことが現実になってしまった。
もう一度会って写真談義をしたかったが叶えられることはない。
突然の葬儀知らせに泣いてしまった。
氏の誕生日は4月4日。
私の方が3カ月早く生まれた同年生。
今でも病いを抱えている私より先に逝ってしまった。
合掌。
写真展から1年後。
逝去されてから半年後。
森本康則さんのFBは生きていたが・・・。
FBが伝える平成30年4月4日の一日前。
「・・誕生日を祝いましょう」のメッセージに反応する人は現れない。
天国に逝ってしまった森本康則さんも応えてくれない。
逝去されて半年間。
どうか天上で見守っていただきたく、FBも「友達から削除」を押して、合掌。
(H29. 4.12 SB932SH撮影)
(H29. 9.25 追記)
(H30. 4. 6 追記)