戦前から戦後にかけて活躍した昭和屈指の大詩人、金子光晴に「花とあきビン」という、とても魅力的な詩集がある。刊行されたのは1973年というから、金子さんが77~78歳の年に上梓されたものだ。一編だけでいいから引用しようと考えてネット検索してみたけれど、あいにく一編もかかってこなかった。
この詩人は難解で観念的な象徴詩を書いて出発し、中国や東南アジア、ヨーロッパ各地を長年、貧苦にあえいだり、貧苦を楽しんだりしながら放浪し、特異な文明論的エッセイや、ヒューマンなまさざしの中に、苦い生活者の痛苦をひそめた詩を発表しつづけ、後進に多くの影響をあたえている。
70歳をすぎてから、「若葉のうた」「愛情69」「花とあきビン」など、軽妙洒脱な批評精神が横溢する、人間観察のエッセンスとういうべき“うた”を書いた。そこでは詩人は、魔術師のように練熟の詩的言語をあやつりながら、決して深刻にも観念的にもならず、一種の洗練された“軽み”とユーモアの世界を展開している。
金子光晴は生活の達人であり、そういう人が書いたエレジーが、その作品のコアになっている・・・とわたしはかんがえる。
「女たへのエレジー」や「花とあきビン」は、わたしのもっとも好きな詩集だけれど、残念ながら、引用することができない´Д`
久しぶりに現像されてきたポジフィルムをスキャンしながら、「花とあきビン」という一冊の詩集をしきりと思い出した。
なぜかというと、わたしが撮影したフォトの中に、花やあきビン、空き缶が、たくさん写っていて、それがどれも魅力的に見えたからである。
斜光線を浴びた花や缶やビンのなんという美しさだろう。
こういうものを意識して探して歩くわけではないのに、ある被写体に吸い寄せられて近づき、レンズを向けると、そこに缶やビンや花がある。あきビンとは、むろん詩人、金子光晴自身のメタファーである。
なんということもなく、ふう~とため息をつく。
わたしは何に誘われてこんなところに立っているのか?
街角ギャラリーには、予期しないいろいろなものがころがっている。わたしのほかに、観客はいない。こんなところで立ち止まって、カメラを向ける人はいない・・・おそらくは。
これらはいつも魅力的なわけではないだろう。
ある日、ある場所、ある光、ある角度から眺めたとき、ほんの一瞬だけ美しい! もしそういってよければ、それが写真の魔法なのだ。その魔法は、「知っている人にしか通用しない」という特性がある。
被写体を“発見する”よろこび。
フォトグラファーのよろこびの大半はそこに存在する、とわたしは思う。だから歩き、歩き、歩く。探しあてるまで、歩き回る。そういった魅力的な被写体を、つくり出すことなんてできないからだ。
世界は輝き、ときめきに満ちている。しかし、いつも、いつもそういうわけではない。
予期せぬときに、突然やってくる。
・・・まるで、わたしがカメラを手にして現れるのを待っていたかのように。
そして、このあいだ、こんなものを見つけた。まるでカラーチャートのような物体。
あったのは、子どもの遊び場。子どもたちは、赤から、青へ、黄色へと、ぴょんぴょん跳ねとんで遊ぶのだろうか。
まるで祈りをささげるように、わたしは慎重にピントを合わせ、一枚だけ、シャッターを切った。
<撮影データ>
カメラ:キヤノンF-1(旧F-1)
レンズ:NewFD50�F1.4 NewFD85�F1.8
フィルム:プロビア100F
スキャン解像度:1200dpi
この詩人は難解で観念的な象徴詩を書いて出発し、中国や東南アジア、ヨーロッパ各地を長年、貧苦にあえいだり、貧苦を楽しんだりしながら放浪し、特異な文明論的エッセイや、ヒューマンなまさざしの中に、苦い生活者の痛苦をひそめた詩を発表しつづけ、後進に多くの影響をあたえている。
70歳をすぎてから、「若葉のうた」「愛情69」「花とあきビン」など、軽妙洒脱な批評精神が横溢する、人間観察のエッセンスとういうべき“うた”を書いた。そこでは詩人は、魔術師のように練熟の詩的言語をあやつりながら、決して深刻にも観念的にもならず、一種の洗練された“軽み”とユーモアの世界を展開している。
金子光晴は生活の達人であり、そういう人が書いたエレジーが、その作品のコアになっている・・・とわたしはかんがえる。
「女たへのエレジー」や「花とあきビン」は、わたしのもっとも好きな詩集だけれど、残念ながら、引用することができない´Д`
久しぶりに現像されてきたポジフィルムをスキャンしながら、「花とあきビン」という一冊の詩集をしきりと思い出した。
なぜかというと、わたしが撮影したフォトの中に、花やあきビン、空き缶が、たくさん写っていて、それがどれも魅力的に見えたからである。
斜光線を浴びた花や缶やビンのなんという美しさだろう。
こういうものを意識して探して歩くわけではないのに、ある被写体に吸い寄せられて近づき、レンズを向けると、そこに缶やビンや花がある。あきビンとは、むろん詩人、金子光晴自身のメタファーである。
なんということもなく、ふう~とため息をつく。
わたしは何に誘われてこんなところに立っているのか?
街角ギャラリーには、予期しないいろいろなものがころがっている。わたしのほかに、観客はいない。こんなところで立ち止まって、カメラを向ける人はいない・・・おそらくは。
これらはいつも魅力的なわけではないだろう。
ある日、ある場所、ある光、ある角度から眺めたとき、ほんの一瞬だけ美しい! もしそういってよければ、それが写真の魔法なのだ。その魔法は、「知っている人にしか通用しない」という特性がある。
被写体を“発見する”よろこび。
フォトグラファーのよろこびの大半はそこに存在する、とわたしは思う。だから歩き、歩き、歩く。探しあてるまで、歩き回る。そういった魅力的な被写体を、つくり出すことなんてできないからだ。
世界は輝き、ときめきに満ちている。しかし、いつも、いつもそういうわけではない。
予期せぬときに、突然やってくる。
・・・まるで、わたしがカメラを手にして現れるのを待っていたかのように。
そして、このあいだ、こんなものを見つけた。まるでカラーチャートのような物体。
あったのは、子どもの遊び場。子どもたちは、赤から、青へ、黄色へと、ぴょんぴょん跳ねとんで遊ぶのだろうか。
まるで祈りをささげるように、わたしは慎重にピントを合わせ、一枚だけ、シャッターを切った。
<撮影データ>
カメラ:キヤノンF-1(旧F-1)
レンズ:NewFD50�F1.4 NewFD85�F1.8
フィルム:プロビア100F
スキャン解像度:1200dpi