※イギリスに関する文学・歴史の本を集め、読んでいく途中で、道草を食うことに決め、この鼎談集を手に取った。
以前から「戦争文学」には関心があった。太古いらい無数の戦争があるうち、とくに第二次世界大戦中の、日中戦争、太平洋戦争・・・すなわちわれわれの戦争への関心が。
しかし、戦争文学らしい戦争文学、それが存在しない。
わずかな例外が、大岡昇平と島尾敏雄の作品である、とかんがえていた。なぜこういうことになったのか?
過去には平家物語、太平記ほか、戦記文学あるいは戦記の場面をたっぷりとふくんだ文学があるが、近代以降戦争文学と正面切っていえるほどのものはない。
いやわたしが知らないだけで存在してはいるのだ。ただし、人びとが好んで読まないだけである。
「戦争なんて知るもんか。おれには、あたしには関係ないから」
そういってケロリとすましている人は幸せである(。-ω-)
本書は川村湊と成田龍一の二人がホストとなって、毎回ゲスト一人を交えておこなった鼎談をまとめたものである。
1.「戦争はどのように語られてきたか」 ゲスト:上野千鶴子
2.「大岡昇平『レイテ戦記』を読む」 ゲスト:奥泉光
3.「従軍記から植民地文学まで」 ゲスト:イ・ヨンスク
4.「井伏鱒二『黒い雨』を読む」 ゲスト:井上ひさし
5.「戦後の戦争文学を読む」 ゲスト:高橋源一郎
6.付章「戦争を知らない世代の戦争文学を読む」 ゲスト:古処誠二
元になったのは、1999年に朝日新聞社から刊行された「戦争はどのように語られてきたか」だそうである。それを2008年に文庫化するにあたり、タイトルを「戦争文学を読む」に変え、第6章を付け加えた・・・という経緯がある。
文庫版の解説は斎藤美奈子。
最も注目したのが、この第6章である。
わたしは古処誠二(こどころせいじ)さんという作家を、これまでまったく知らなかった。川村湊と成田龍一も読んだことがないけれど(^^;
読書の範囲を広げすぎると収拾がつかなくなると恐れているからだ。
わたし的には、ぜんたいとしてはとてもエキサイティングで、おもしろく読めた。島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」の評価が高いことは予想がついた。大岡昇平の「レイテ戦記」については、あらためて“読み方”を教えてもらえたのがありがたかった。
「レイテ戦記」を特徴づけている、とことん事実を追求しようとする執念とか、敵・味方の記録の対比に執念をもやしていることとか、それが作家大岡昇平の何に由来しているかが考察されている。
三島由紀夫「英霊の聲」、大江健三郎「飼育」「芽むしり仔撃ち」をどう読んだらいいか、いろいろな角度から検討されていて、参考になった。
しかし、本書を読んだ第一の効用といえば、第6章に登場する古処誠二さんを教えてもらったこと。
古処さんの発言の一部を引用してみよう。
《かつての陸軍士官学校では、教えるのが最も困難な学科は戦史だと言われていました。歴史の真相が出るには五〇年の時間が必要だという格言も、ようするに当事者の感情が消えてはじめて事実に向き合えるという意味でしょう。
交通事故でいえば、当事者同士の言うことはまず食い違います。正確に検証しようとすれば、絶対に「他人」の目が必要です。その検証には、もちろん長い時間がかかります。検証の過程では、当事者からの罵倒も浴びるでしょう。おまえに何がわかるんだと言われるかもしれないし、おまえの調べ方は間違っていると言われるかもしれない。
ですが、そこで倦んだり、無関心を決め込めば、もう何も進みません。
「戦争を知らない世代が何を言うか」という言葉は、むしろ必要な障害なのだと思います。それがなければ、戦後の人間は身を律して取り組むことができなくなります。常に批判にさらされ、疑われている必要があると思うのです。》(312ページ)
まことにいさぎよい姿勢というべきである。わたしは感心した(。-ω-)
出処進退の臍をかためたうえで、戦争文学を書いていることに敬意を払わざるをえない。
興味本位でたまたま書いてみたら読者にウケた・・・というのではない。覚悟を決めて書いている作家の言である。そこに目を瞠った。
戦争文学に、こういう新しい書き手が登場している。そのことを肝に銘じておこう。
評価:☆☆☆☆☆