(手許にあるモームの文庫本の一部)
そろそろ撮影モード全開・・・といきたいところだけど、暖気運転ばかりしていて、一向に走りださないのはどーしたわけだろう(笑)。
まもなく4月となり、桜が咲く季節になるというのにね。
ところで、読書の世界ではこのところ迷走していて、あれもこれもと、やたらいろいろな本に手出ししている。
フィクションには復帰をはたした。そのため、小説を主に読んでいる。
読みおえるのに、何日もかかるような長編が読めないから、短編ばかり。
そこから強く印象に残った作品について、備忘録的にいくつか感想を書いておこう。
■川崎長太郎「徳田秋声の周囲」(「抹香町・路傍」講談社文芸文庫所収)
今回読んだ川崎さんのものでは、一編だけといえば、この異色の短編を挙げておく。
私小説なので、若き日、師の徳田秋声の家に出入りし、校正の手伝いをしていたころを、後年になって書いている。
徳田、川崎は本名で登場。それに徳田秋声の愛人、山田順子が、実名で出てくる。
文学史上有名なこの“淫婦”がなかなかうまく描いてある。
男から男へと渡り歩き、結局は体で金をかせぐ女に、川崎も欲望をそそられている。しかし、金のない青二才など、袖にされるばかり。
それでも懲りずにまとわりつくさまが、根ほり葉ほり書いてあり、いかにも私小説。
「ほう、うまいなあ。こういう小説も書けるんだね、川崎さん!」
と、わたしは感心しながら読んだ。
評価:☆☆☆☆
■S・モーム「征服されざる者」(「ジゴロとジゴレット」新潮文庫所収)
収録作8編のうち、今回3編を拾い出して読んだが、わたし的にはこの一編は圧倒的な読後感。
いやはや、モームは女には点が辛いところがあるのは「月と六ペンス」を読んだとき、気が付いた。
衝撃のラストシーンである。
だから、そのラストにはふれないでおく。
モーパッサンの「脂肪の塊」を100点満点とすれば、こちらは80点くらい、かな?
モームが舌なめずりしながら、人間の裏表をその筆であぶり出している。
「そうか、そうくるか!」と思いながら読みすすめた。悪ずれした読書人も、これなら納得・・・といいたい切れ味のいい短編。
モームの人並みはずれた鋭い洞察力がキラリと光る、読み応え十分の秀作である。
評価:☆☆☆☆☆
■宮本常一「対馬にて」(「忘れられた日本人」岩波文庫所収)
「忘れられた日本人」は名著の呼び名がすでに高い本。したがって、いまさらわたしが持ち上げてもしかたない、といえばいえる。
過去に一回読んでいる「土佐源氏」は、まるで短編小説の味わい。
「忘れられた日本人」には13編のエッセイ、ドキュメンタリーが収められている。そのほとんどが、聞き書きか、調査記録なのだが、どの一編もずしりとした端倪すべからざる内容を備えている。
いやはや、たいしたものです、宮本さん。
日本列島を、いったい何千キロ歩きまわったんだろう(・_・?)
決して柳田國男の後塵を拝しているわけではない。民俗資料として、約10万枚の写真を残した・・・というのもすごい!の一語。
「対馬」は巻頭に置かれてある。
広島県の周防大島に生まれた宮本さん、辺境や離島を、じつに丹念に歩いて、調査し、記録していった。未知の村落へ出かけ、闇夜の中を歩くことがどれほど困難なことであったか、宮本さんの体験が教えてくれる。
公式の歴史には登場しない、無名の庶民たち。これらすべては彼らへの“鎮魂歌”なのであろう。
評価:☆☆☆☆☆
■葛西善蔵「椎の若葉」(「哀しき父・椎の若葉」講談社学芸文庫所収)
講談社学芸文庫のいわばバックナンバーをたくさん取りそろえた書店が、高崎にあり、そこへ出かけたとき、気まぐれで手にした。
このシリーズはどれも高価なので(文庫なのに、1500円から2000円もするものがめずらしくない)、これまではほとんど、中古でしか買ったことがなかった。
かなり昔「子をつれて」だけ読んで、ああ、こういう作風なのかと見当はついていた。
平成が終ろうとしている現在、車谷長吉さん、西村賢太さんのファンというなら別だろうが、大昔の私小説を読んでみよう、読み返してみようという読者がどれほどいるだろう?
小説と名がついているが、エッセイといっても、身辺雑記といってもいい。高校生の作文レベル・・・とまではいえないが。
親族や友人、出版社に迷惑ばかりかけている。伊藤整さんのことばを使えば、典型的な逃亡奴隷が、この葛西善蔵である。しかも破滅型の。
今回読んだ中では「悪魔」「蠢く者」「椎の若葉」「湖畔手記」「酔狂者の独白」あたりは、それなりに愉しめた(^^;)
酔っぱらいながら、ときおり気をひきしめて書いている。葛西のようなタイプの人間は、いまでも存在する。いつの世も「いい子ちゃん」ばかりではない。
太宰治もそうだけど、基本はナルシストなのである。だから「可愛くて仕方ない自分自身」のことばかり書いている。他者というものが、わかっているはずなのに、どうにもならない苦しみ。
一編だけといえば「椎の若葉」が好きだが、「湖畔手記」も充実した内容を備えている。
《白根山、雲の海原夕焼けて、妻し思えば、胸いたむなり。》
《秋ぐみの、紅きを噛めば、酸く渋く、タネあるもかなし、おせいもかなし。》
葛西を語るときよく引用されるこの短歌は「湖畔手記」に登場する。
宿の女中たちが、とてもナイーヴに、清冽な水音を聞くように描かれている。佳品といっていいだろう。
読書というのは、はたにいる人間からみたら、怠けているのと同じ。
まさにナマケモノ、長い間、じっと動かない。
頭の中は、遠いとおい世界へ旅している。野菜の手入れをするわけでも、草刈りするわけでもない。
だから、実生活の役に立たない読書は、読書という悪習なのである。
読書をしている人は、「そこにいない」のと同じなのだろう。悪習といわれれば「はい」と肯定するしかない。
そろそろ撮影モード全開・・・といきたいところだけど、暖気運転ばかりしていて、一向に走りださないのはどーしたわけだろう(笑)。
まもなく4月となり、桜が咲く季節になるというのにね。
ところで、読書の世界ではこのところ迷走していて、あれもこれもと、やたらいろいろな本に手出ししている。
フィクションには復帰をはたした。そのため、小説を主に読んでいる。
読みおえるのに、何日もかかるような長編が読めないから、短編ばかり。
そこから強く印象に残った作品について、備忘録的にいくつか感想を書いておこう。
■川崎長太郎「徳田秋声の周囲」(「抹香町・路傍」講談社文芸文庫所収)
今回読んだ川崎さんのものでは、一編だけといえば、この異色の短編を挙げておく。
私小説なので、若き日、師の徳田秋声の家に出入りし、校正の手伝いをしていたころを、後年になって書いている。
徳田、川崎は本名で登場。それに徳田秋声の愛人、山田順子が、実名で出てくる。
文学史上有名なこの“淫婦”がなかなかうまく描いてある。
男から男へと渡り歩き、結局は体で金をかせぐ女に、川崎も欲望をそそられている。しかし、金のない青二才など、袖にされるばかり。
それでも懲りずにまとわりつくさまが、根ほり葉ほり書いてあり、いかにも私小説。
「ほう、うまいなあ。こういう小説も書けるんだね、川崎さん!」
と、わたしは感心しながら読んだ。
評価:☆☆☆☆
■S・モーム「征服されざる者」(「ジゴロとジゴレット」新潮文庫所収)
収録作8編のうち、今回3編を拾い出して読んだが、わたし的にはこの一編は圧倒的な読後感。
いやはや、モームは女には点が辛いところがあるのは「月と六ペンス」を読んだとき、気が付いた。
衝撃のラストシーンである。
だから、そのラストにはふれないでおく。
モーパッサンの「脂肪の塊」を100点満点とすれば、こちらは80点くらい、かな?
モームが舌なめずりしながら、人間の裏表をその筆であぶり出している。
「そうか、そうくるか!」と思いながら読みすすめた。悪ずれした読書人も、これなら納得・・・といいたい切れ味のいい短編。
モームの人並みはずれた鋭い洞察力がキラリと光る、読み応え十分の秀作である。
評価:☆☆☆☆☆
■宮本常一「対馬にて」(「忘れられた日本人」岩波文庫所収)
「忘れられた日本人」は名著の呼び名がすでに高い本。したがって、いまさらわたしが持ち上げてもしかたない、といえばいえる。
過去に一回読んでいる「土佐源氏」は、まるで短編小説の味わい。
「忘れられた日本人」には13編のエッセイ、ドキュメンタリーが収められている。そのほとんどが、聞き書きか、調査記録なのだが、どの一編もずしりとした端倪すべからざる内容を備えている。
いやはや、たいしたものです、宮本さん。
日本列島を、いったい何千キロ歩きまわったんだろう(・_・?)
決して柳田國男の後塵を拝しているわけではない。民俗資料として、約10万枚の写真を残した・・・というのもすごい!の一語。
「対馬」は巻頭に置かれてある。
広島県の周防大島に生まれた宮本さん、辺境や離島を、じつに丹念に歩いて、調査し、記録していった。未知の村落へ出かけ、闇夜の中を歩くことがどれほど困難なことであったか、宮本さんの体験が教えてくれる。
公式の歴史には登場しない、無名の庶民たち。これらすべては彼らへの“鎮魂歌”なのであろう。
評価:☆☆☆☆☆
■葛西善蔵「椎の若葉」(「哀しき父・椎の若葉」講談社学芸文庫所収)
講談社学芸文庫のいわばバックナンバーをたくさん取りそろえた書店が、高崎にあり、そこへ出かけたとき、気まぐれで手にした。
このシリーズはどれも高価なので(文庫なのに、1500円から2000円もするものがめずらしくない)、これまではほとんど、中古でしか買ったことがなかった。
かなり昔「子をつれて」だけ読んで、ああ、こういう作風なのかと見当はついていた。
平成が終ろうとしている現在、車谷長吉さん、西村賢太さんのファンというなら別だろうが、大昔の私小説を読んでみよう、読み返してみようという読者がどれほどいるだろう?
小説と名がついているが、エッセイといっても、身辺雑記といってもいい。高校生の作文レベル・・・とまではいえないが。
親族や友人、出版社に迷惑ばかりかけている。伊藤整さんのことばを使えば、典型的な逃亡奴隷が、この葛西善蔵である。しかも破滅型の。
今回読んだ中では「悪魔」「蠢く者」「椎の若葉」「湖畔手記」「酔狂者の独白」あたりは、それなりに愉しめた(^^;)
酔っぱらいながら、ときおり気をひきしめて書いている。葛西のようなタイプの人間は、いまでも存在する。いつの世も「いい子ちゃん」ばかりではない。
太宰治もそうだけど、基本はナルシストなのである。だから「可愛くて仕方ない自分自身」のことばかり書いている。他者というものが、わかっているはずなのに、どうにもならない苦しみ。
一編だけといえば「椎の若葉」が好きだが、「湖畔手記」も充実した内容を備えている。
《白根山、雲の海原夕焼けて、妻し思えば、胸いたむなり。》
《秋ぐみの、紅きを噛めば、酸く渋く、タネあるもかなし、おせいもかなし。》
葛西を語るときよく引用されるこの短歌は「湖畔手記」に登場する。
宿の女中たちが、とてもナイーヴに、清冽な水音を聞くように描かれている。佳品といっていいだろう。
読書というのは、はたにいる人間からみたら、怠けているのと同じ。
まさにナマケモノ、長い間、じっと動かない。
頭の中は、遠いとおい世界へ旅している。野菜の手入れをするわけでも、草刈りするわけでもない。
だから、実生活の役に立たない読書は、読書という悪習なのである。
読書をしている人は、「そこにいない」のと同じなのだろう。悪習といわれれば「はい」と肯定するしかない。