カメラ・マニアのあいだでだけ通用することばに「ライカ・ウィルス」がある。
いや、ただしくは、あったというべきか。 デジタル全盛の昨今、ずいぶん淘汰されたはずだから――。
銀塩カメラの時代に猖獗をきわめ、小金をもったおじさんたちがよく罹った。発症すると、さして使いもしないカメラやレンズが、つぎつぎと欲しくなる。それにお金をつぎこむ。まあ、一種の「物欲」で、いろいろな形態の「ライカ信仰」を生み出した。
教祖はだれか? じつはよくはわからない。田中長徳さんあたりは、使徒となって、多くの本を書き、布教に影響をあたえたものだ。
これはわたしのいい方となるけれども、クラシック音楽のジャンルでは「フルトヴェングラー・ウィルス」がある。
たとえば「フルトヴェングラー、名盤」のキーワードで検索をしてみると、じつにたくさんのウェブへアクセスできる。 いうまでもなく、伝説的な大指揮者、カリスマ中のカリスマが、このフルトヴェングラーで、ほかにも、トスカニーニ、ワルター、クナッパーツブッシュ、ムラヴィンスキー、カラヤン、カルロス・クラーバーなどがいる。だけど、フルトヴェングラーの存在は圧倒的! 音楽雑誌などで、ときおりおこなわれる評論家やファンの人気投票で、つねに1位を保ちつづけている。
フルトヴェングラーの名盤のなかで、ずば抜けて有名なのは、「バイロイトの第九」と呼ばれている1枚のレコード(のちCD)。これがそれ。
かつて持っていたが、だれかに貸してそれきり戻ってこないので、その後、図書館で借りて、一度聴いている。今年、ORFEOの「第九」を買って聴いたことから、わたしもこのカリスマ指揮者を、ふたたび意識するようになった。
そして、これ。
ロベルト・シューマンのニ短調の交響曲(第4番)である。
図書館で借りてきて、今年はじめて聴いたのだ。これがすばらしかった。
そのあと、バーンスタインの「シューマン交響曲全集」を手に入れたのだけれど、
バーンスタイン指揮の第4番からは、残念ながら、フルトヴェングラーほどの感銘が得られなかった。
で、とうとう我慢できずこれを買ってきて、昨夜、
フルトヴェングラー、
バーンスタイン、
フルトヴェングラー、
――という風に、たてつづけに聴いてみた。
具体的に、どこがどう違うかを指摘することはできないのだが、明らかに違うのは、単にテンポの取り方だけではないのだ。
フルトヴェングラーの名盤はたいへん数が多く、ビギナー泣かせ。
だが、いつのまにか、ベートーヴェンの第3番、シューベルトの第8(9)番(ザ・グレイト)あたりも聴いてみたいと思うようになり、このままいくと、フルトヴェングラー・ウィルスに感染してしまうのかもしれない(;_;)デハハ、と思うようになった。
シューマンの第4シンフォニーは、知性のきらめきを残しながら、
鬱勃としたロマンの香りが、深いかげりをつくりだし、リスナーをインスパイアしてやまない。4楽章はほぼ切れ目なく演奏されている。とくに力強い激情性をひめた第3楽章スケルツォの魅力には、抗しがたいものがあり、自由でいきいきした楽想の展開は、ベートーヴェンの最良のパッセージを思い出させる。
他に類例を見ない輝かしい才能が、大舞台で見事な演技をおこない、拍手喝采をあびてから、退場する。そして、静謐が訪れる。その全体の姿が、大きなうねる波のようなリズムと感情をつくりだし、海はまた凪ぎへともどっていくのだ。
まさに「シューマンって、こんな音楽を書いた作曲家なの?」である。シナリオはさほどでもないのに、役者がすごかった・・・といってもいいのだろうか。この曲に関するかぎり、残念ながらバーンスタインは、フルトヴェングラーにはるかにおよばない。
うぅー、危ないなあ。
またまた熱があがってきたぞ(=_=)
いや、ただしくは、あったというべきか。 デジタル全盛の昨今、ずいぶん淘汰されたはずだから――。
銀塩カメラの時代に猖獗をきわめ、小金をもったおじさんたちがよく罹った。発症すると、さして使いもしないカメラやレンズが、つぎつぎと欲しくなる。それにお金をつぎこむ。まあ、一種の「物欲」で、いろいろな形態の「ライカ信仰」を生み出した。
教祖はだれか? じつはよくはわからない。田中長徳さんあたりは、使徒となって、多くの本を書き、布教に影響をあたえたものだ。
これはわたしのいい方となるけれども、クラシック音楽のジャンルでは「フルトヴェングラー・ウィルス」がある。
たとえば「フルトヴェングラー、名盤」のキーワードで検索をしてみると、じつにたくさんのウェブへアクセスできる。 いうまでもなく、伝説的な大指揮者、カリスマ中のカリスマが、このフルトヴェングラーで、ほかにも、トスカニーニ、ワルター、クナッパーツブッシュ、ムラヴィンスキー、カラヤン、カルロス・クラーバーなどがいる。だけど、フルトヴェングラーの存在は圧倒的! 音楽雑誌などで、ときおりおこなわれる評論家やファンの人気投票で、つねに1位を保ちつづけている。
フルトヴェングラーの名盤のなかで、ずば抜けて有名なのは、「バイロイトの第九」と呼ばれている1枚のレコード(のちCD)。これがそれ。
かつて持っていたが、だれかに貸してそれきり戻ってこないので、その後、図書館で借りて、一度聴いている。今年、ORFEOの「第九」を買って聴いたことから、わたしもこのカリスマ指揮者を、ふたたび意識するようになった。
そして、これ。
ロベルト・シューマンのニ短調の交響曲(第4番)である。
図書館で借りてきて、今年はじめて聴いたのだ。これがすばらしかった。
そのあと、バーンスタインの「シューマン交響曲全集」を手に入れたのだけれど、
バーンスタイン指揮の第4番からは、残念ながら、フルトヴェングラーほどの感銘が得られなかった。
で、とうとう我慢できずこれを買ってきて、昨夜、
フルトヴェングラー、
バーンスタイン、
フルトヴェングラー、
――という風に、たてつづけに聴いてみた。
具体的に、どこがどう違うかを指摘することはできないのだが、明らかに違うのは、単にテンポの取り方だけではないのだ。
フルトヴェングラーの名盤はたいへん数が多く、ビギナー泣かせ。
だが、いつのまにか、ベートーヴェンの第3番、シューベルトの第8(9)番(ザ・グレイト)あたりも聴いてみたいと思うようになり、このままいくと、フルトヴェングラー・ウィルスに感染してしまうのかもしれない(;_;)デハハ、と思うようになった。
シューマンの第4シンフォニーは、知性のきらめきを残しながら、
鬱勃としたロマンの香りが、深いかげりをつくりだし、リスナーをインスパイアしてやまない。4楽章はほぼ切れ目なく演奏されている。とくに力強い激情性をひめた第3楽章スケルツォの魅力には、抗しがたいものがあり、自由でいきいきした楽想の展開は、ベートーヴェンの最良のパッセージを思い出させる。
他に類例を見ない輝かしい才能が、大舞台で見事な演技をおこない、拍手喝采をあびてから、退場する。そして、静謐が訪れる。その全体の姿が、大きなうねる波のようなリズムと感情をつくりだし、海はまた凪ぎへともどっていくのだ。
まさに「シューマンって、こんな音楽を書いた作曲家なの?」である。シナリオはさほどでもないのに、役者がすごかった・・・といってもいいのだろうか。この曲に関するかぎり、残念ながらバーンスタインは、フルトヴェングラーにはるかにおよばない。
うぅー、危ないなあ。
またまた熱があがってきたぞ(=_=)