およそ1か月前だったと思うけれど、BOOK OFFの500円の棚で、スヴャトスラフ・リヒテルの二枚組CD(輸入盤)を手に入れた。
収録曲はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第1番、第7番、第17番、そしてシューベルトの、これまたピアノ・ソナタ、そしてシューマンの幻想曲など。
どれもがすばらしい出来なので、買ってからもう10回か、それ以上聴いている。
いまも、会社のCDラジカセからベートーヴェンのピアノ・ソナタ第1番が流れている。
わたしは1番など、ずっと昔に、バックハウスで聴いただけ。「初期の習作」というイメージしかもってはいなかったが、リヒテルで聴くと「傑作の森」といわれる時代の、じつに充実しきったピアノ曲の逸品と同じように胸に食い込んでくるのである。
ポリーニがテクニックで弾くところを、リヒテルは精神で弾いている。
こういう表現は誤解をまねきそうだけれど、ひとくちでいえば、そんな印象。テクニックが悪く、精神がいい・・・と、単純な振り分けをしていうのではない。
わたしにいわせると、ポリーニとリヒテルとでは、音の生れ出る場所が、少し違うのである。感動は“完全無欠な”ポリーニより、リヒテルのほうが、なぜか大きい。わたしにはどうも、そう感じられる。
リヒテルはなにか名状しがたい怪物と、たたかっているのである。それは孤立無援のたたかいであって、だれも手をさしのべることができない。リヒテルがたたかっているのは、なんという怪物なのだろう? 虚無か、絶望か、払ってもはらっても、押し寄せてくる不安か?
わたしにはわからない。
西側に登場したばかりの若いころは、ゴリラみたいな風貌で、力まかせに弾く、感情過多なピアノストという印象が強かった。いつから変わってきたのだろう。
たどたどしく歩いていく。淋しげにうつむいている。
座り込んで頭をかかえている。めずらしく微笑みをうかべ、手を空にさしのべている。音楽に耳をすましていると、いろいろな演奏家のイメージが頭の片隅をよぎる。
http://www.youtube.com/watch?v=jX3ekL7AIxw
途方もない才能をもっているのと同時に、何者をもってしても癒すことができない大いなる闇をかかえた男。こういう演奏家は、ほんとうに、何度もなんども、くり返し聴くにたえる音楽をつくり出していく。
さて、ここからが今日の本題、中判カメラの実力について・・・ということになる。
6月5日、「食堂 松島軒」を撮った、あの日の散歩に、ヤシカマット124Gを連れ出した。
<PEN E-P3>
<ヤシカマット124G>
なるべく同じ被写体は撮らないよう心がけてはいるが、ついつい撮らされる*´∀`)ノ
あとでこうして比較検討できるから・・・と考えて。
こういう場合の相棒は、これまではPENデジ、E-P3の出番が圧倒的に多かった。
レンズは標準ズーム一本だけ。メインはフィルム、デジでおさえを・・・のつもりなのだけれど、撮影枚数は比較にならない。フィルムだと24コマはかなり撮り甲斐のある枚数である。
苦労しながらピントを合わせ、露出を選び、考えながら立ち止まってじっくり狙うからだろう。
半分は試験走行の気分がある。逆光で撮ってみたり、オーバー気味に撮ってみたりと。
フードがないので、どんなハレーションやゴーストがあらわれるかわからない'`,、('∀`)
スキャン精度はすべて600dpi。スキャン原画は600KB~1.2MBの容量となる。それを800×800=350KBでリサイズし、必要最小限度レタッチをくわえる。
こうして眺めると、35�もブローニーも大差ないように見えるが、フォーマットの違いからくる空間の把握力には、画然とした違いがあるように思われる。
シャープネスやクリア感だけでいえば、デジタルが優位に立っている。しかし・・・なんといったらいいのか、「写真としての純度の高い味わい」では、フィルム写真、とくに中判カメラの迫力にはおよばないものがある。だから中判を使いたくなる。
大きなフォーマットの場合、被写体とのあいだに介在する空気までが写しこまれるのである。だから、写真に、より大きな説得力が生まれる。シニカルにいえば、「たいしたことない」写真でも、少し立派に見える(笑)。これはチョートク仙人がそういっておられるのだから、間違いあるまい。
カメラをかえると、気分がかわる。被写体が違ってみえる。
ごく単純にいってしまえば、カメラマンとは、カメラをもつ人。
つまり、肉眼のほかに、レンズとか、フォーマットとか、シャッタースピードとかいう眼をもつ。解像力だけなら、いまのデジタルはすでにフィルムに追いついているか、追い越している。画像エンジンなるコンピュータが、過不足のない画像を、一瞬で仕上げてくれる。
しかし、だからこそ、失ってしまったものもある。
そのことに気が付かない人は幸いである。時間とお金のムダをしないで済むから。
しかし、そこに、ちょっと他とは比べられないよろこびがひそんでいることに気が付いてしまうと、「あれれ、けっこうお高いですね」と思いながら、腰を据え、老舗の味にホッとひと息。時間がたつのを忘れ、しばし舌鼓をうつ・・・ということになるのであ~る*´∀`)ノ
この写真、右上の小さな穴の部分が受光部。いまどきのネガフィルムなら、この大昔の内蔵露出計で十分な精度がえられる。
撮影にはちょっとばかり「慣れ」が必要。そこがまたおもしろい。
※mixiアルバム「ヤシカマット124Gギャラリー 2013」はこちら。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000084241141&owner_id=4279073
今回は失敗作(あわてたのでブレている)をふくめ、24枚すべてをアップしています。
収録曲はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第1番、第7番、第17番、そしてシューベルトの、これまたピアノ・ソナタ、そしてシューマンの幻想曲など。
どれもがすばらしい出来なので、買ってからもう10回か、それ以上聴いている。
いまも、会社のCDラジカセからベートーヴェンのピアノ・ソナタ第1番が流れている。
わたしは1番など、ずっと昔に、バックハウスで聴いただけ。「初期の習作」というイメージしかもってはいなかったが、リヒテルで聴くと「傑作の森」といわれる時代の、じつに充実しきったピアノ曲の逸品と同じように胸に食い込んでくるのである。
ポリーニがテクニックで弾くところを、リヒテルは精神で弾いている。
こういう表現は誤解をまねきそうだけれど、ひとくちでいえば、そんな印象。テクニックが悪く、精神がいい・・・と、単純な振り分けをしていうのではない。
わたしにいわせると、ポリーニとリヒテルとでは、音の生れ出る場所が、少し違うのである。感動は“完全無欠な”ポリーニより、リヒテルのほうが、なぜか大きい。わたしにはどうも、そう感じられる。
リヒテルはなにか名状しがたい怪物と、たたかっているのである。それは孤立無援のたたかいであって、だれも手をさしのべることができない。リヒテルがたたかっているのは、なんという怪物なのだろう? 虚無か、絶望か、払ってもはらっても、押し寄せてくる不安か?
わたしにはわからない。
西側に登場したばかりの若いころは、ゴリラみたいな風貌で、力まかせに弾く、感情過多なピアノストという印象が強かった。いつから変わってきたのだろう。
たどたどしく歩いていく。淋しげにうつむいている。
座り込んで頭をかかえている。めずらしく微笑みをうかべ、手を空にさしのべている。音楽に耳をすましていると、いろいろな演奏家のイメージが頭の片隅をよぎる。
http://www.youtube.com/watch?v=jX3ekL7AIxw
途方もない才能をもっているのと同時に、何者をもってしても癒すことができない大いなる闇をかかえた男。こういう演奏家は、ほんとうに、何度もなんども、くり返し聴くにたえる音楽をつくり出していく。
さて、ここからが今日の本題、中判カメラの実力について・・・ということになる。
6月5日、「食堂 松島軒」を撮った、あの日の散歩に、ヤシカマット124Gを連れ出した。
<PEN E-P3>
<ヤシカマット124G>
なるべく同じ被写体は撮らないよう心がけてはいるが、ついつい撮らされる*´∀`)ノ
あとでこうして比較検討できるから・・・と考えて。
こういう場合の相棒は、これまではPENデジ、E-P3の出番が圧倒的に多かった。
レンズは標準ズーム一本だけ。メインはフィルム、デジでおさえを・・・のつもりなのだけれど、撮影枚数は比較にならない。フィルムだと24コマはかなり撮り甲斐のある枚数である。
苦労しながらピントを合わせ、露出を選び、考えながら立ち止まってじっくり狙うからだろう。
半分は試験走行の気分がある。逆光で撮ってみたり、オーバー気味に撮ってみたりと。
フードがないので、どんなハレーションやゴーストがあらわれるかわからない'`,、('∀`)
スキャン精度はすべて600dpi。スキャン原画は600KB~1.2MBの容量となる。それを800×800=350KBでリサイズし、必要最小限度レタッチをくわえる。
こうして眺めると、35�もブローニーも大差ないように見えるが、フォーマットの違いからくる空間の把握力には、画然とした違いがあるように思われる。
シャープネスやクリア感だけでいえば、デジタルが優位に立っている。しかし・・・なんといったらいいのか、「写真としての純度の高い味わい」では、フィルム写真、とくに中判カメラの迫力にはおよばないものがある。だから中判を使いたくなる。
大きなフォーマットの場合、被写体とのあいだに介在する空気までが写しこまれるのである。だから、写真に、より大きな説得力が生まれる。シニカルにいえば、「たいしたことない」写真でも、少し立派に見える(笑)。これはチョートク仙人がそういっておられるのだから、間違いあるまい。
カメラをかえると、気分がかわる。被写体が違ってみえる。
ごく単純にいってしまえば、カメラマンとは、カメラをもつ人。
つまり、肉眼のほかに、レンズとか、フォーマットとか、シャッタースピードとかいう眼をもつ。解像力だけなら、いまのデジタルはすでにフィルムに追いついているか、追い越している。画像エンジンなるコンピュータが、過不足のない画像を、一瞬で仕上げてくれる。
しかし、だからこそ、失ってしまったものもある。
そのことに気が付かない人は幸いである。時間とお金のムダをしないで済むから。
しかし、そこに、ちょっと他とは比べられないよろこびがひそんでいることに気が付いてしまうと、「あれれ、けっこうお高いですね」と思いながら、腰を据え、老舗の味にホッとひと息。時間がたつのを忘れ、しばし舌鼓をうつ・・・ということになるのであ~る*´∀`)ノ
この写真、右上の小さな穴の部分が受光部。いまどきのネガフィルムなら、この大昔の内蔵露出計で十分な精度がえられる。
撮影にはちょっとばかり「慣れ」が必要。そこがまたおもしろい。
※mixiアルバム「ヤシカマット124Gギャラリー 2013」はこちら。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000084241141&owner_id=4279073
今回は失敗作(あわてたのでブレている)をふくめ、24枚すべてをアップしています。