過去にアップした写真を、たまに見直す。
「ははあ、こんな写真を撮っていたのだ」
日記を読み返すより、写真を見返してヒマつぶしをすることのほうが、
ずっと多い。
1.撮影したとき。
2.アルバムにアップするとき。
3.なにかの気まぐれで見直すとき。
4.さらにまた、見直すとき。
そのときどきで、どうも少し印象が変わって見えるのが、写真の効用のひとつ。
写真が変わったわけではなく、それを見るときのこちらの心持ちが変わるのだ。
はじめにピックアップした写真を、さっき見直していて、萬町が万町になった日はいつなのだろうと、気になった。
町の中には、看板・広告があふれている。
そういったものに反応しながらシャッターを押す。経過した時間が凝縮し、あるいはよどみ、時代の風韻をしのばせる。
その種の看板を、これまでずいぶん撮影しているのだなあ(^^;)
いずれも「小雨降る栃木路」で出会って、カメラにおさめたもの。
昭和の終わりころのある日、萬町は万町になったのだ。
そうして町名変更で、何町何丁目に統合され、姿を消す。
平成の市町村合併でも、ずいぶんと多くの地名が消えた。
かつて「今は昔」というシリーズをやっていた。ところが昔をしのぶよすがとしての地名が消えてしまって、風土は区画整理などによって、幾何学的なマトリックスへと変わってゆく。
「ここにはかつて、なんという町があったのだろう」
地名は地霊とむすびついて、この世に誕生している。そういうことは、柳田國男さんの本を読むと、よく見えてくる。地名・町名を変更すると、過去とのつながりは切断される・・・と、わたしはおもう。
群馬県には市町村合併により「みどり市」が誕生したが、地元住民は、それを“地名”とは心得ず、単なる行政区分だと考えているそうである。そんな話をこのあいだ、ある老人から聞き、あたりまえといえばあたりまえなのに、なるほどと納得。
わたしはどうやら「まもなく消えてしまいそうなもの」ばかりにカメラを向けている。
そればかり撮っているわけではないけれど、アルバムの中で占める割合はかなり高い。
萬町が万町になった日、単に旧字が新字になったばかりではなく、わたしは、あるいは多くの日本人は、あるものに訣別したのだろう。そのことを忘れまい。