二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

「私の死亡記事」

2008年01月13日 | エッセイ(国内)
 書棚を眺めていたらふと眼にとまり、読み出したらやめられず、イッキ読みした。
 本書奥付を見ると「2004年12月」とあるから、約3年前の刊行。単行本の刊行は2000年とある。この文庫、半年ほどまえに古本屋で買ったまま忘れていたのであった(^^;)
 読むのは購入した本の20%程度だから、買ったまま忘れるのは、わたしの場合めずらしくもない。数時間で読みあきて、ほかの本に手を出したりもするから、年中4~5冊は並行して読んでいる。きちんと読了するのは、そのうちの60%ほど。夏になってデジカメでいろいろ撮影しはじめると、活字からしだいに遠ざかり、ぱったり読まなくなったりするのである。

 さて「私の死亡記事」である。アンソロジーの通例で、私的におもしろいのもあるし、つまらないのもあった。老齢や死を「わが事」として感じたり考えたりすることのめったにない若者にはおもしろくないだろうし、五十の坂をこえて、目前に老齢や死が見えてきた中高年は身につまされて読むのだろう。

<「ご自身の死亡記事を書いて下さい」という企画に各界102名が応えて実現!ネクロロジー(死亡記事、物故者略伝)を当の本人が執筆している。存命中でありながら、「すでに一生を終えた人物」として扱い、その業績、あるいは辞世の言葉を解説している。>(玄侑宗久公式サイトより引用)
 奇想天外な記事もあるし、ユーモアあふれる記事、きまじめな記事、顕彰の碑のような記事、フィクション仕立ての記事と、バラエティーにとんでいるため、とても十把一絡げに評価を下せるようなものではない。登場するのは俗にいう「有名人」ばかりだから、さぞやと想像したが、地味な記事が予想以上に多く、とてもおもしろかった。読みすすんでいくと、生前どんなに華やかに活躍した人でも、最後はたったひとり、なにも持たずに死んでいくのだ、そいうあたりまえのいわば「常識」が、胸にこたえてくる。葬儀じたいを「やらないでくれ」といっている人がこれほど多いとは・・・。
 
生きてある以上、死はつねに現在進行形である。その仕事ぶりや人となりを多少とも知っている人、知らない人の区別なく、どの死亡記事もアクチュアルな興味に満ちている。冒頭におかれた「はじめに」のなかで「不謹慎だとお叱りをうけるかもしれませんが・・・」と編集部が気を遣っているが、出来あがったのは、ひねりの効いたまさに「前代未聞の書」。十代のころにはずいぶんいろいろと選択肢があり、希望や可能性の夢をふくらませることができるが、終わりから眺めたら一本の道である。あんなに大きかったはずの人が縮んで見えたり、逆に小さかったはずの人が大きく見えたり・・・。
感覚器官が老化し、衰えてくると、世界はどんどん遠ざかっていく。親や恩師や友人が死んで、身辺が寂しくなっていく。鴎外や正岡子規、あるいは最近でいえば江藤淳の遺書は何度となく読んでいるが、こちらは生前に自身が書く「死亡記事」である。

 その企画が本書成功の因、それがすべてといってもいい。国家、職業、年齢、性別、才能、主義主張にかかわりなく「死に無縁な人」は存在しない。自己批評の腕の見せ所である。
 人間とは、みな変人なんだな~、という嘆息が何度となくもれた。同じ人はいるわけないが、似ていると感じた人も見あたらない人それぞれのおもしろさ! 東京都知事に立候補したが落選した黒川紀章の「死亡記事」など、まだ生々しい感触をつたえてくる。また元世界チャンピオンのガッツ石松がどういった半生を送ったのか、この記事ではじめて知った。
死を畏怖し、暗く深刻にとらえるばかりがいいわけではない。生の達人がそのまま死の達人ではないから、ほんとうは自身の死など、だれにも見通せないものなのである。最後の瞬間まで、自分がそのときどう振る舞うか、わかりはしない。山田風太郎に「人間臨終図鑑」というすごい本があり、読んでいないので読んでみたいと思っている。
 だが、その風太郎さんもこの世の人ではない。
 評価は個々の死亡記事にではなく、こういった企画に対して下すことになる。

 文藝春秋偏「私の死亡記事」阿川弘之ほか 文春文庫>☆☆☆☆★

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