この本をどう評価したらいいのか、じつはまだ迷いながら書き出している。
おもしろい部分と、つまらない部分が、複雑に混じり合った織物である。
気軽に読めるエッセイかな、と思っていると、読みすごしにはできない、思想書のような、深い啓示に満ちた数ページがある。
しかし、読みすすめるにしたがい、印象はやや散漫になっていった。
問題提起は鋭いのだけれど、なにか、俗耳にはいりやすい結論に落ち着いてしまう。むずかしい問題を、レトリックでかわしてしまう。・・・そう、文学者のエッセイのように、たいへんレトリカルなのである。
もしかしたら「器用貧乏」というタイプの人なのかもしれない。
フレキシブルな感性をもち、頭の回転はすばらしくはやい。外国語には堪能だし、本はたくさん読んでいる。海外体験も豊富。「なんでも見てやろう、読んでやろう」精神がある。
しかし、考え方をかえると、時流の風にのって舞っている凧のような心許なさが感じられる。だから、時流が変化すれば、たちまち消えてしまうような、そんな本の一冊ではないだろうか。ほんとうは、時代にベストフィットすることを警戒しなければならないのに、この人には、目の前にいる「読者」(あるいは編集者)の貌が見えすぎてしまう。
だから、まあ、おかしな比較かもしれないけれど、カルチャー界の五木寛之といえないこともない。
ジャーナリズムを仕事場とする「知の冒険者」なのであるが、ことばをつむぎながら、器用に空を泳いでいるだけ。論調はしばしば、よくある「人生論」に近づく。
したがって、鋭い問題提起と思われたものが、たんなる大言壮語癖に見えてしまうのだろう。
アマゾンのレビューを参照していたら、こんな評価に出会った。
『心脳問題を考えるということは心の神秘を避けて通ることはできない。だが、脳の実証主義的なアプローチだけでも解くことはできない、そうしたアポリアを果敢に引き受けることの裏には、著者の現代科学への危機的状況の認識と深い憂慮の念が存している。細分化された科学の統合不能性は誰の目にも明らかである。だからこそ著者は「世界を引き受ける」知的総合の必要性を繰り返し繰り返し説く。あたかも風車めがけて突進するドンキホーテよろしく、その心意気や好し、である。そうした高邁な理想を一笑に伏すか、賞賛の拍手を送るか、読み手の思量がまさに問われているのではないだろうか? あまりに浅薄な知性が跋扈するかとおもえば、専門の知識に埋没することが知の怠惰でもあるアンビバレントに苛まれている現代科学の警鐘の書であると思いたい。』(ワインドアップバードさん)
あたうかぎり著者の側に寄り添った、肯定的な評価である。しかし、養老孟司さんのことばのような鋭利さと毒が、ここにはない。
また論点がしばしば転換し、構造的な一貫性はとぼしいと、わたしには見えた。
発想のすべてが、短距離走者的――とでもいったらいいのだろうか。
個々に取り出してみると「価値はどのように決まるのか」(第Ⅳ章)「収束性という罠」(第Ⅴ章)あたりが、本書の稜線をなすような興味深いものをふくんでいる。
時代を切り開く者というよりは、やはり時代の随伴者なのである。
真の知の冒険者たるもの、レトリックに逃げず、踏みとどまって、掘り下げていく地味な作業が必須なはず。ジャーナリズムを泳いでいたのでは、残念ながら、そういう存在にはなれないだろう。
わたしは、じつはこの人には、かなり高い期待を寄せていたのである。しかし、本書を読む限りでは、「回転する思考」の器用さばかりが押し出されてくる。
頭のいい人だし、色彩にあふれた紋様の独楽はたしかに、高速で回転しているのである。
だが読みおえて2、3週間もたつと、本書の読後感はどんどん稀薄になり、他の本にまぎれてしまう。
「新時代(現代)の知的な人生論」
落ち着くのは、どうやら、そんなところかもしれない。
評価:★★★☆(3.5)
おもしろい部分と、つまらない部分が、複雑に混じり合った織物である。
気軽に読めるエッセイかな、と思っていると、読みすごしにはできない、思想書のような、深い啓示に満ちた数ページがある。
しかし、読みすすめるにしたがい、印象はやや散漫になっていった。
問題提起は鋭いのだけれど、なにか、俗耳にはいりやすい結論に落ち着いてしまう。むずかしい問題を、レトリックでかわしてしまう。・・・そう、文学者のエッセイのように、たいへんレトリカルなのである。
もしかしたら「器用貧乏」というタイプの人なのかもしれない。
フレキシブルな感性をもち、頭の回転はすばらしくはやい。外国語には堪能だし、本はたくさん読んでいる。海外体験も豊富。「なんでも見てやろう、読んでやろう」精神がある。
しかし、考え方をかえると、時流の風にのって舞っている凧のような心許なさが感じられる。だから、時流が変化すれば、たちまち消えてしまうような、そんな本の一冊ではないだろうか。ほんとうは、時代にベストフィットすることを警戒しなければならないのに、この人には、目の前にいる「読者」(あるいは編集者)の貌が見えすぎてしまう。
だから、まあ、おかしな比較かもしれないけれど、カルチャー界の五木寛之といえないこともない。
ジャーナリズムを仕事場とする「知の冒険者」なのであるが、ことばをつむぎながら、器用に空を泳いでいるだけ。論調はしばしば、よくある「人生論」に近づく。
したがって、鋭い問題提起と思われたものが、たんなる大言壮語癖に見えてしまうのだろう。
アマゾンのレビューを参照していたら、こんな評価に出会った。
『心脳問題を考えるということは心の神秘を避けて通ることはできない。だが、脳の実証主義的なアプローチだけでも解くことはできない、そうしたアポリアを果敢に引き受けることの裏には、著者の現代科学への危機的状況の認識と深い憂慮の念が存している。細分化された科学の統合不能性は誰の目にも明らかである。だからこそ著者は「世界を引き受ける」知的総合の必要性を繰り返し繰り返し説く。あたかも風車めがけて突進するドンキホーテよろしく、その心意気や好し、である。そうした高邁な理想を一笑に伏すか、賞賛の拍手を送るか、読み手の思量がまさに問われているのではないだろうか? あまりに浅薄な知性が跋扈するかとおもえば、専門の知識に埋没することが知の怠惰でもあるアンビバレントに苛まれている現代科学の警鐘の書であると思いたい。』(ワインドアップバードさん)
あたうかぎり著者の側に寄り添った、肯定的な評価である。しかし、養老孟司さんのことばのような鋭利さと毒が、ここにはない。
また論点がしばしば転換し、構造的な一貫性はとぼしいと、わたしには見えた。
発想のすべてが、短距離走者的――とでもいったらいいのだろうか。
個々に取り出してみると「価値はどのように決まるのか」(第Ⅳ章)「収束性という罠」(第Ⅴ章)あたりが、本書の稜線をなすような興味深いものをふくんでいる。
時代を切り開く者というよりは、やはり時代の随伴者なのである。
真の知の冒険者たるもの、レトリックに逃げず、踏みとどまって、掘り下げていく地味な作業が必須なはず。ジャーナリズムを泳いでいたのでは、残念ながら、そういう存在にはなれないだろう。
わたしは、じつはこの人には、かなり高い期待を寄せていたのである。しかし、本書を読む限りでは、「回転する思考」の器用さばかりが押し出されてくる。
頭のいい人だし、色彩にあふれた紋様の独楽はたしかに、高速で回転しているのである。
だが読みおえて2、3週間もたつと、本書の読後感はどんどん稀薄になり、他の本にまぎれてしまう。
「新時代(現代)の知的な人生論」
落ち着くのは、どうやら、そんなところかもしれない。
評価:★★★☆(3.5)