長者ケ原遺跡の6,000年前(前期)から出土したのが、滑石製の「牙状勾玉」であります。
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勾玉の祖型を獣の牙玉、魂拘禁具(たましいこうきんぐ)としての釣り針、再生を願う三日月、8,000年前の中国の河姆渡遺跡で作られた玦状耳飾りが1,000年後に日本に伝わり、半分に割れたものをリメイクしたなど諸説あるが、どの段階で勾玉と呼べるのかは、明確な定義はないようなのです。
ちなみに最古級の勾玉は、糸魚川市の大角地遺跡から出土し7,000年ほどまえの牙玉状の勾玉(滑石製)なので、考古学的にはプロト勾玉は牙玉とする見解が主流。
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私の最大の疑問は、6,000年前に勾玉が作られたとするなら、なんで中期には出土せず、3,000年くらい前の縄文後期・晩期から再開されて古墳時代まで作られたのかという断絶期の謎。
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実のところ、縄文~弥生時代までの間のヒスイ加工には500年ほどの断絶期があり、再開時には技術革新が伴うらしいのですが、何があったのか謎ですなぁ。大陸や半島から稲作文化をもって渡来した人々の影響はあったのだろうと愚考・・・。
それとヒスイ産出地の糸魚川に、完成品の出土も極端に少ないことも謎で、需要と供給が追い付かなかったのか?それとも何らかの禁忌があったのか??
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それにしても「牙状勾玉」は、頭部と尾部に刻みが入っており、弥生時代に作られる「丁子頭勾玉」の祖型に観えないこともなく、造形的にも優れておりますな。
もっとも原石を割ってできたフレーク(薄片)の形状を活かしてつくった結果に、「丁子頭勾玉」っぽくなったとも考えることもできますナ。
なぜかというと、その後に類型が出土していないからで、系譜をないがしろにしては考古学ではなくなってしまい、そこいらのニューアカデミズムオヤジになってしまうw
そんなことをガイドで説明しておりますが、明日は今年最初で最後(?)の団体ツアーガイド。
摩擦式発火法の火起こしも披露しますぜ。
因みに写真の「牙状勾玉」は、ガラス越しの写真撮影だけで作ったネフライト製の複製でありますが、実物とほぼ同じサイズでありました。
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