交友関係はそれほど広くはないですが,それでも気の合う仲間が何人かいます.
地元の友人であったり,旅先で出逢った友人であったりと.
でも皆それぞれに生活があり,実際に会う機会はごく僅かです.
人と話すのが好きなのですが,友人宅にお邪魔するのは気を遣うのでちょっと苦手.
親の代から親戚が集まることが多かったこともあり,人が来てくれることの方が性に合っていて
いろんな人が家に来てくれました.
二十代のころから夜な夜なバイクをいじっていました.
それを知っている友人は夜中によく遊びに来ました.
偶然居合わせた者同士が仲良くなって,また盛り上がって・・・・
我が家のガレージライフの始まりはそんな感じでした.
20代半ばの頃,幼なじみが仕事を辞めてレンタルビデオ屋にバイトに行き始めました.
そこにリリースされたばかりの映画「ゴースト」のビデオを借りにいったのですが,大人気で
全部貸し出し中,諦めて帰ろうとしたとき,そこの店長さんがバックヤードから一本のビデオを
持ってきて,にっこり笑いながら
「彼女と見るのか? がんばりな~」と言って貸してくれました.
確かサンプル品だったと思います.
サンプル品といっても画面の隅っこに小さい文字で「sample」と表示されるだけで内容は同じ.
たぶんお金も取らなかったと思います.
すごく嬉しかったのを覚えています.
その人との出逢いはそれが一番最初だったと思います.
一つ年上の人でした.
話していて楽しくて,仕事の帰りに寄るようになり事務所で良くおしゃべりしました.
私がバイク乗りというのを知って,自分も大型免許を取ると言い出してバイトの子たちと誰が一番に
取るかと競い合っていました.
大型二輪の教習所もない時代.
練習用に中古のヤマハFZ750を買ったものの,本人よりもバイトの子達ばかり練習していました.
みんなで免許を取った後,そのバイクも結局,お金のないバイトの子にあげていました.
決してお金があることをひけらかす人ではありませんでした.
だた下の者の事をいつも考えていました.
みんなから慕われていました.
私の職場のバイク仲間も交えてみんなでツーリングにも行きました.
このツーリングの日が第一子の出産日でした.
奥さんには
「取り上げてくれるのは医者やから俺がおらんでも大丈夫やろ.ツーリングは俺がおらんとあかんねん.」
ちょっと豪快で,でも威張らず,誰にでも気さくに話しかけ,いつも笑っている人でした.
二十代後半の頃
お金に付いての話でこんなのを覚えています.
「お前なんぼ貯金あるねん.25才くらいやったら300万円.30才やったら500万円くらい持っとかんと
あかんぞ.
二十歳やそこらやったら向こうの親にお金ないですねんって言えるけど,30才にもなって結婚するのに
犬や猫の子を貰うみたいにはいかんで.」
すごく印象的な話でした.
経済観念をこの人から教わった気がします.
私もこの人を慕いました.
三十才前,カワサキの空冷GPz1100が欲しくて,店長に頼んでバイトをさせて貰いました.
“欲しい物はちゃんとお金を貯めて買う.遊興品に給料を充てない.”
そう思うようになったのもこの人の影響だと思います.
チェーン店だったレンタルビデオ店.
経営が傾いた店に出向いていって立て直すのがこの人の仕事でした.
何が他の店長と違うのかは分かりません.
ただバイトの士気を高め,店の雰囲気を明るくするのが集客につながったのかもしれません.
今では当たり前の返却ボックスもこの人が設置しました.大手TSUTAYAが全国展開する前の事でした.
仕事はまじめで厳しい人でした.
夜中,バイクをいじったり部品を作ったりしていると,
「おくちゃん,やってるな~」
そう言っていつもたこ焼きやお好み焼きを差し入れてくれました.
「お前のバイクいつもバラバラやな.完成したら高いけど今なら“キロなんぼ”の鉄クズやな~」
そんなふうによくからかわれました.
楽しい時間でした.
いまより少し景気の良い時代.毎年北海道に行っては根室から花咲ガニを贈りました.
子供さんからは「カニのおじさん」と呼ばれていたそうです.
毎年代わり映えのしない贈り物でしたが,世話になった私に出来ることはそれくらいしかありませんでした.
「いっつも悪いなあ.お前が結婚して子供出来たら祝ったらなあかんなあ」
私達が結婚したときも一番に祝ってくれました.
「お返しとかいらんで.やって半分返すなんて何の意味もないから.俺もせいへんからお前も
せんでいいからな」
変なしきたりに囚われず本当に心から祝うことを心情にされていました.
レンタルビデオ事業を人に任せ,新たな事業開拓ということでビデオ試写室の事業を立ち上げられ
違う店舗に移ったのと,私も熊本に転勤になったことで会う機会がずいぶん減ってしまいました.
それでも縁が切れると思ったことは一度もありませんでした.
元々肝臓が悪い人でした.
病院の薬では良くならないから,自分で探してきた漢方薬をずっと服用していました.
「漢方薬も高いからなあ.月20万から30万円くらいやねん.この前計算したら家一軒建てれるくらいに
なっとったわ」
そう言いながら笑っていました.
長い間会うことがなかったのですが昨年あたりから,ひょこっとガレージに顔を出されるように
なりました.
不妊治療の話も打ち明けました.
「妊娠しても高齢での初産は産道が細いから出産であかんこともあるから気をつけろよ.
生まれたら祝ったるから連絡してこいよ」
きれい事では無い大人の意見をする人でした.
今年の3月
出逢ったきっかけとなった友人がハワイから帰ってくるので宴会をした際にみんなで再会しました.
長い間会わなかったのが嘘のようでした.
楽しい時間.
またこんな時間が始まるのかと思っていました.
6月の終わり頃,行きつけのバイク屋さん主催のバーベキュー.
当時バイトしていた子も来ていましたが,先日リストラにあったのを知って励ますために何度も
飲みに行っていたそうです.
分かれて十数年が経っても,いつも下の子らのことを気に掛けてくれていました.
そして今年8月22日 友和子(とわね)が生まれた日
赤ん坊が生まれたこと,肺に穴が開いていることを電話で伝えました.
「心配やろけど医者に任すしかないな.でもよかったなあ.落ち着いたら顔見に行くわな」
8月25日
赤ん坊の様態が回復してきたことも連絡しました.
ようやく祝ってもらえるんだと嬉しくなりました.
8月28日
Facebookのメッセージで赤ん坊がNICUを退院出来たことを連絡しました.
「よかったな」の言葉の後,体調を崩して寝込んでいることが書かれていました.
9月に入り,どうしているのか少し気になってはいたものの,それ以上に,いつ見に来てくれるのかが
気になって仕方がありませんでした.
友和子も今のところ異常な所見もなく元気にしてる.
毎日寝不足になりながらも楽しい日々を送っている.
いつ来てくれるのか,それが楽しみでした.
9月23日(日)
朝,知らない番号から電話が掛かってきました.
「藤野の親戚の者ですが,昨夜藤野が亡くなりました」
私にとってこれほど大きな存在の人はいませんでした.
いつも私達の事を気に掛けてくれて,強く,厳しく,そして優しく.
どれだけの事をこの人から学んだのだろうか.
人の上に立つと言うこと.人を思いやると言うこと.
どれだけのことを見せてくれたのだろうか.
一つ違いでしたが,その存在は十歳も二十歳も上に感じ,友達であり,兄貴であり,先輩であり.
いつも見守ってくれているように思える人でした.
悲しくて,悲しくて仕方がありません.
いまでも楽しそうに話す声が私の心の中で聞こえて来ます.
それに応えても,もう返事が返ってこないと思うと切なくてやりきれません.
「あほやなあ,奥村」
「がっはははは~」って豪快な笑い声.
Facebookのウォールを見ると今でも生きていて,メッセージを書くと返事をくれそうな気がします.
赤ん坊の存在でずいぶん救われていると自分でも分かります.
出来ることなら一緒にいて欲しかった.
私にとって大切な年上の友.
もう少しそばにいて欲しかったです.
藤野康則さん 享年47才
好きでした.
いつも,いつも.ありがとうございました.