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大した人生ではないけれど,それでも読み返せば思い出されるあのときのこと.消えないように,そして生きた証になるように

最近のこと⑦ 12月26日 退院(転院)そして寅次郎とお別れ

2018-02-26 08:33:12 | 潰瘍性大腸炎と健康
最近のことの続きになります。


下痢や血便、発熱がメサラジン(5-ASA製)のアレルギーによる疑いが強くなって服用を中止し熱だけはとりあえず治まった。


潰瘍性大腸炎の基本薬が使えないのはこの先の事を考えると残念でならなかった。

代わりに処方されたのはステロイド(ステロネマ注腸)だった。






ステロイド=「副作用が怖い」
よく知らないけどイメージはあまりよくない。

主治医に聞くと「腸に限定的なのでそれほど強くはない」と言っていた。

他に選択肢がないのでそれ以上考えることもなく受け入れることにした。



レモンにストローが突き刺さったような容器に液体の薬が入っていて、お尻に突っ込んでギュッと握って薬を腸に入れる。
注腸したらベッドでゴロゴロ寝返りをうって腸の中で薬を広げる。

液体なので漏れたりすることもあったり、ベットでゴロゴロもいつでもできるわけでもなくて使い勝手があまり良くないらしい。




次の日、新しい薬に変わった。

「レクタブル注腸フォーム」 つい先日(2017年12月7日)日本で発売されたばかりの新薬。


フォーム(ムース状)なので垂れてこずゴロゴロも不要。
漫然と続けられないため6週間だったか、それを目安に使用を見極めるという。






以前は重症となってステロイドが効かない場合はすぐに腸の全摘出となったという文献の記述を見つけた。

いまは治療法も増えてきて
・免疫調整薬
・抗TNFα抗体製剤)
・白血球除去療法

研究中のものでは
 糞便移植
 生薬


自分もこの先のことを考えると、より多くの治療方法が出てきてほしいと願うばかり。






年の瀬もいよいよ迫り、入院患者も自宅で正月を迎えるため病棟も少しひっそりしはじめた。

私も今後についての話になった。
この病院は救急病院ではない。そのため一旦退院すると年末年始体調が悪くなっても対応できず、主治医も予想外のアレルギー反応にもしもの時の対応を気に
してくれていた。

そこで、とら母の通っている大学病院の話になった。
偶然にも主治医の母校でもあり、救急病院でもあるため年末年始はそちらで対応してもらったらと提案された。



短い期間だったがそれでも慣れた病院から知らない病院に転院はすこしためらいがあった。でもこれも選択肢があるわけでもなく、そうすることにした。


いきなり急患で運ばれるよりも一度でも外来で診て貰っておいた方が良いと言うことで、この病院を退院したその日に次の病院で初診を受けることになった。

あわただしく物事が過ぎる。




退院の前日に入浴を許可された。
10日ほどろくに食事もしてなくて体から脂分が抜けたせいか4日ほど風呂に入って無かった割にギトギト感はなかった。
それでも二回体を洗った。






12月26日
朝食を済まし退院した。
次の病院の予約時間まで1時間ほど余裕があったので一度家に帰ることにした。


家に帰ると寅次郎がいつものように横たわっていた。
こちらを見ている寅次郎。
少し見ない間に一段とやつれたように思えた。


体を撫でてやるとタオルケットを掛けていたのにも関わらず体がすごく冷たいように感じた。


いつものように担いで勝手口の出たところまで連れて行き朝のトイレを済ませた。

膀胱を圧迫すると見たことも無いくらい白く濁ったオシッコが出た。





用を済まして次の病院へ行くことにした。

新しい先生は前の病院の主治医の息子さんだった。
若い先生だったが大学病院なので治験は豊富そうに思えた。

診察の結果入院はせずに通院で診て貰うことになった。



家に帰ると疲れたのか寅次郎の横で夕方まで寝てしまった。


食事を済ませ、寅次郎を担いでまた外にトイレに連れて行った。
オシッコはでなかった。


抱きかかえて家に入ろうとしたとき寅次郎の舌が口から垂れ下がったままなのに気付いた。

瞳孔も開いたままのように見えた。

慌ててとら母を呼んだ。


もうダメかもしれない。とら母にそう言った。


そうこうしている間に舌は元に戻って意識も少しあるように思えた。

動物病院に電話して連れて行くことにした。



慌てて支度をして病院に向かった。診察時間ギリギリの8時頃だった。

診察台に乗せて先生が聴診器を当てたときにはもう心臓が止まっていた。

それでも体が少し動いているように見えたので「まだ生きてるのでは」と言って何度も診てもらったがやっぱり寅次郎の心臓は止まったままだった。




夜、最期くらいきれいにして送ってやりたかったのでシャンプーをしてあげた。

もう体を振って水を切ってくれない寅次郎は乾かすのも大変だった。



翌日、以前お世話になった動物霊園に電話をした。
大阪でも北摂の山の中にある霊園で、折しもこの日寒波が襲い雪で帰れなくなるから今日は止めておいた方が良いと言われた。

遺体が痛まないように出来ればドライアイスで冷やすことを勧められ慌ててドライアイス屋さんを探すことになった。


ネットで検索すると出てくるのは「全国発送」「迅速発送」というのばかり。明日ではなく今必要なのにネット広告はそんなのばかり。


こういったときタウンページが役立つことを思い出し、ネット版タウンページで製氷業で検索し隣町にドライアイス屋を見つけ何とか入手することが出来た。





翌日、天気は晴れて雪もなく無事霊園に着くことが出来た

寿命を全うした別れなので泣かないと誓ったのに泣いてしまった。
楽しいことがたくさんあって、最期は介護をして別れの時の心の準備もできたので、落ち込むことはなかった。
ただやせ細った体にしてしまったことは悔やまれた。

ごめんよ、寅次郎。






犬も一緒に入れる墓地の話を聞いてみた。いずれ自分たちも死んでいく。
娘に墓守をさせることに少しためらいがある。でも墓に入るならみんな一緒がいい。








自宅に戻り、慌てて年賀状を作った。

寅次郎が居た最後の年。いつもは旅の思い出を題材にするけど、今年は寅次郎の事を思いながら作った。





つづく





最近のこと⑥ 潰瘍性大腸炎で入院  下痢 血便 発熱 5-ASA製剤(メサラジン)のアレルギー

2018-02-21 03:02:46 | 潰瘍性大腸炎と健康
最近のことの続きになります。

2日ほど声枯れが続きそのあと咳が出だしたので風邪かと思っていたら、熱が出て激しい下痢と血便に何度も襲われた。
落ち着いていた潰瘍性大腸炎が再燃したと思って病院に行ったものの、主治医からは潰瘍性大腸炎によるものでは無いと言われた。
ただそれまで直腸型だったものがS状結腸の方まで約30センチほど潰瘍が広がっていると言われた。

抗菌製剤(クラビット錠)を処方して貰ったものの、その後も症状は変わらず週末を迎える前にもう一度病院に行くことにした。






食べると下痢で3時間くらいはトイレから出られない
ろくに食べることも出来ない日が続くと、食べ物の動きが分かりやすくなって口にしてからだいたい9時間くらいで便意をもよおすことが分かった。
普通なら胃と小腸で消化するのが9時間くらいと言われているので、腸は素通り状態なのがよく分かる。


電車や病院で下痢に襲われないように食事の時間を調整していった。



12月22日(金)
主治医の診察日ではなかったけど院内でほかの検査をしているとのことで、終わったら診てくれることになった。
この日は午後からとら母の手術結果を二人で聞きに行かなければならず時間が気がかりでならなかった。

時計を見ながら待合室の長椅子で待った。
看護師さんに事情を話したが、血液検査をしたとしても結果がでるまで1時間くらいは掛かるので難しいのではと言わた。

とら母に電話をして自分が行けなくても大丈夫かとら母の行っている病院に聞いてもらうよう連絡した。







しばらくして主治医の先生がやって来て腸の出血状態を診てもらうが、さほどひどくはないと言われた。

「だいぶやつれたな」主治医からそう言われ、年の瀬でもあるし念のため一週間ほど入院しないかとすすめられた。



急な話に少し戸惑った。

寝たきりの寅次郎のことが真っ先に浮かんだ。
年賀状も作らないといけないし仕事もすでに一週間休んでいる。


と言ってもこればかりはどうしょうもなく入院する事になった。


とら母にまた電話をして、入院する事を告げた。





大阪駅から数百メートルの所にある病院。
窓際のベッドからビル群が見える。

向かいの建物はどこかのオフィスが入っている。
営業だろうか、ディスクが列んだフロアでスーツ姿の社員が働いているのが見える。

普通に仕事ができるという事のありがたみを思い知らされる。








入院している間、毎日とら母と娘が病院に来てくれた。





こんな時、子供の笑顔に助けられる。





症状は変わらないままだったので腸を休めると言うことで絶食となった。

水分は点滴で補い、栄養はドリンクで摂った。コーヒー風味とあったけどキャラメル味みたいだった。これを朝と晩に二回。
もうお腹が空くとか言う感覚が無くなってしまった。







体重計に乗ったら78Kgあったのが74Kgになっていた。

「この体重計って着ている服とかの分を差っ引いてますか?」看護師さんに聞いたけど、「そのままです」と言われた。

鏡を見て、やつれているのが自分でも分かった。





入院してからそれまで服用していた「リアルダ」から「ペンタサ錠」に減量し、腸の奥まで届くようにと「ペンタサ座薬」から液体の「ペンタサ注腸」になった。
どちらも特効薬と言われたメサラジンと言われる5-ASA製剤の薬だったが、また急に39℃の熱が出た。



これによって主治医はメサラジンのアレルギーの疑いが強いと判断し、その日からメサラジンは中止となった。

特効薬と言われ潰瘍性大腸炎の基本薬が使えなくなり、この先どうなるのかと心配になった。






12月25日
世間はクリスマス。

娘は欲しかった黒いネコのぬいぐるみをもらった。

嬉しそうに病院にまで連れてきた。






薬を止めて熱も下がり食事も摂れるようになってきた。

食事に添えられたカードもクリスマスだった。


本当なら予約していたクリスマスケーキを家で食べてるはずだったのに、年を食うとDNAもおかしくなってきて、いつどうなるかわかったものじゃない。









夜、病院から見える夜景がきれいだった。








梅田スカイビル









街もクリスマス色していた。









つづく

最近のこと⑤ 潰瘍性大腸炎のこと 特効薬の5-ASA(ゴアサ)製剤 声枯れ 咳 発熱  

2018-02-17 00:57:05 | 潰瘍性大腸炎と健康
最近のことの続きになります。

間が空いてしまってすみません。


潰瘍性大腸炎と分かったものの薬(リアルダ、ペンタサ注腸)を服用したらその日のうちに血便が止まり、おまけに便まで太くなって思いのほか快調で、
難病患者になったという自覚はほとんどありませんでした。



病院でもらった冊子を読んだ後、病気について少し調べてみました

潰瘍性大腸炎(指定難病97)は大腸の粘膜がただれたり潰瘍ができる大腸の炎症性疾患で、症状は激しい下痢や腹痛、血便や下血、粘血便が繰り返し何度も襲ってくる病気で、酷くなると
1日に何十回とトイレに駆け込まないといけなくなる。
原因は不明で、食生活の欧米化、ストレス、自己免疫不全などと言われていて現在のところ完治する内科的治療はなく、薬によって腸の炎症を抑えて、その状態を維持(寛解)することが主な治療。
症状が悪化(再燃)し活動期が長いと癌になる確率が上がり、薬の効果がない場合は大腸そのものを全摘出する外科的治療を行う。






症状が治まっていても完治出来ないため「完治」ではなく「寛解」と言い、同様にまた発症しても「再発」と呼ばず「再燃」という。この病気にならなかったらきっと知らなかったと思う。



発症については主に二十代が高く、近年では五十代での発症も増えてきているらしい。








著名人でこの病気なのが安倍首相で中学生の頃に発症し2007年に総理を辞職したはこの病気が悪化したためと言っている。

安倍首相はアサコールという薬(2009年12月発売)が劇的に効いたらしく、特効薬と呼ばれたと聞いたことがあります。

このアサコールをはじめ私が服用したリアルダやペンタサも5-アミノサリチル酸製剤(5-ASA製剤)という薬の商品名で、炎症を抑える作用があり今はこの病気の基本薬となっています。


なので私にとっても5-ASA(ゴアサ)製剤は特効薬だったというわけです。




一週間後の再診の日。(12月13日)
血便も何事も無く快調に過ごしてきたので主治医との話も先ずは血液検査の結果から。

以前から高めだったコレステロール。
主治医からは薬を飲むか運動をするかどちらかと言われ、薬を一生飲み続けることに抵抗があって「薬はちょっと・・・」。
そう言うと、では運動するようにと膝に優しい自転車を勧められました。


こんな感じで診察は無難に終わり難病認定に必要な診断書を依頼し一ヶ月分の薬を処方してもらいました。


すぐ近所の薬局に寄ると30分待ちと言われ近所をぶらっと散歩。
知らない土地は何となくワクワクします。







薬局に戻って代金を聞いてびっくり。

「1万円になります」

前回は10日分ほどだったので気付かなかったですが新薬なので、むっちゃ高いです。



帰りの電車で「難病」というのを少し実感しながら帰ってきました。



実はそのころから声が枯れていて、最初は風邪によるものかなと簡単に思っていました。
声枯れが二・三日続いてそのあと咳が出始めました。
自分では「とうとう風邪をひいたな」そんな風に思ってマスクをして普通に仕事をしていました。

その週末いきなり39℃の熱が出ました。

風邪の熱にしてはだるさや辛さが少し違うよう思え、どちらかというと体が発熱しているかのようでした。


熱と同時に激しい下痢と血便が襲ってきました。

繰り返す下痢に苦しめられました。


食べることも出来なくなり、とら母がおかゆやうどんなど消化の良いものを作ってくれました。


でも食べると下痢便意が襲ってきてまたトイレに。

食べたものを出し尽くしても下痢便意が止むことはありませんでした。


トイレに入って一滴の血便を絞り出すのに20~30分かかり、それでようやく布団に戻っても途端に下痢便意が襲ってきてまたトイレに。

際限なく襲ってくる下痢便意。

最後は何も出ないのに下痢便意が襲って来ます。

布団に入って襲ってくる下痢便意に「どうせトイレに行っても何もでないや」とトイレに行くことを止めるべく便意と戦いましたが、人間の体はすごい物で
下痢便意があるととても寝てはいられませんでした。




症状が治まるのに3時間くらい掛かりそのほとんどをトイレで過ごしました。

この症状特有の1日何十回とトイレに駆け込むという症状を身をもって知りました。



かなしいかな数ヶ月前からウォシュレットが不調でそれまで旅行の時に使う携帯用のお尻洗い(ペットボトルにノズルを付けるだけの単純なもの)を使っていたのですが、ここに来て
頻繁のトイレに駆け込むのにお湯を入れている余裕も無く冷たい水でお尻洗浄するしかありませんでした。

こんな事なら早くウォシュレットを買い換えとけばと後悔しました。



寒いトイレに我慢が出来ず電気ストーブを持ち込んで堪え忍びました。


主治医の診察は火曜日。
土曜から発熱して地獄のような週末でした。

医者にこの症状を何て説明しようと寒いトイレのなかでネット検索しました。


「しぶり腹」

初めて聞く名前でしたがちゃんとありました。
この病気になっていろんな言葉を知ることが出来ました。




やがて食べると下痢便意をもよおすので体が食べ物を要求しなくなってきました。
体に貯め込んだ脂肪をエネルギー源としているみたいでした。



週が明ける頃、体温は37℃台にさがり、それが平熱のような錯覚になり、ほとんど食べれないこともあって下痢便意の周期も延びてくれました。

火曜日(12月19日)、電車に乗って頑張って病院に行きました。
途中で下痢便意に襲われたらどうしようと心配になりました。

これが度を過ぎると、いわゆる「パニック障害」になるんだろうなと思いました。



主治医は簡易的な内視鏡で見てくれましたが、酷い出血はなく潰瘍性大腸炎の症状では無くウイルス性か病原菌による腸炎を疑っていました。

前日食べた物が何だったかとか聞かれ「自分で作ったお好み焼きです」と答えましたが、もちろんそんものではなりにくく主治医も「考えにくいなあ」と言いました。


取りあえず可能性は低いけどと言われて抗生物質を処方しその日は帰宅しました。







1日たっても症状は変わらず仕事にも行ける状態ではありませんでした。

翌木曜日は午後からとら母(嫁)の病気の結果を二人で聞きに行く日だったので午前中にもう一度病院に行くことにしました。


午前中しか時間が無い中、主治医の診察日ではなかったので少し待たなければならず、時間にも追われて落ち着くことが出来ませんでした。



主治医が都合を付けて診てくれる事になったのですが、検査とかした場合午前中では終わらないと、看護師さんも心配そうに気に掛けてくれて、結局とら母の病院へは
一人で行って貰うことにして、主治医の手が空くのを長椅子で待つことにしました。




続く












最近のこと④ 大腸内視鏡検査と潰瘍性大腸炎

2018-02-01 12:09:34 | 潰瘍性大腸炎と健康


「最近のこと」の続きになります。

とら母(嫁)の手術は順調に終わり、幸いにも5日の入院で済みました。
娘と寅次郎の世話がどうなるかと心配しましたが、近くに住む姉が食事の用意や幼稚園のお迎えを手伝ってくれて、事なきを得ました。



12月4日
先延ばしにしていた自分の大腸の内視鏡検査の日。

検査前日、寂しい大腸検査食でかなりの空腹感。

以前から一度食べてみたいと思って、それでも高くて買えなかったカニ。
ネットを見ながら終わったら本当に買って食べてやろうと心に誓いました。


幼稚園がたまたま休みだったので、ついでにお出かけということで一緒に付いてきてくれました。







無邪気に出掛けられる事を喜ぶ娘を見ながら、健康で背負うもののないと言うことが、どれ程幸せなのかをしみじみと感じました。






大阪駅で別れて一人病院へ。
主治医は60歳台後半かそれ以上くらいの先生。
名札に特別顧問と書かれてあり、この分野では重鎮だと後で知りました。


四月に地元のクリニックで診てもらった時に腸が長いと言われていましたが、クネクネしててなかなか内視鏡が奥まで入らず、
それこそ腹の中からツンツン突かれるような経験したことのない重い痛さで、つい声を上げてしまいました。

今思えば地元のクリニックでやった時は鎮静剤で半分意識が無くて気付かなかっただけで、同じようにツンツンやられていたのかもしれません。


手応えと反応を見ながら挿入しているのをみると、意識の無いのも考えものかもしれません。



どれくらい時間が経ったのか分かりませんが一通り検査が終わり先生から「直腸型の潰瘍性大腸炎」と言われました。

この時はまだ癌とかポリープとかの命に関わる病気かどうかが気になっていて先生に尋ねましたが、「癌やポリープは無い」と言われホッとしました。


「潰瘍性大腸炎」
初めて聞く病名に何度も聞き返しましたが覚えきれず看護師さんに頼んで紙に書いてもらいました。



検査の後、鎮静剤を抜くために1時間ほど横になって点滴を打たれてました。

眠ろうとしましたが寝付けず、帰ったら何を食べようかとそんな事をずっと考えていました。

しばらくすると主治医の先生が来てくれて穏やかな雰囲気で病気の話を少し聞かせてくれました。

病気のことを聞いてもピンと来なかったのですが唯一印象に残ったのが「難病なので申請書持って来たら書いてあげるよ」という言葉でした。

病気のことが書かれた冊子を何冊かくれてリアルダという飲み薬とペンタサという座薬、それと整腸剤のミヤBMを処方されました。



帰りはまた、とら母と娘と待ち合わせ一緒に帰ることにしました。







ここの病院では家に帰り着くまで食事は控えるようにと言われていたので、ただひたすら帰って食べる事だけ考えていました。







帰ってから貰った冊子を読みましたが、正直この時点では全然頭に入って来ませんでした。





薬を飲んだ翌日には、嘘のように出血も収まりました。

「難病」と言ってもこんなもんなら全然平気だとその時は思いました。


でも、これでおわらず、これからが始まりだという事がもう少し先に分かりました。


追伸
いま病院でこのブログを書いています。今日は内視鏡検査の日。
腸の洗浄剤を飲んでいる最中です。(2月1日)

つづく。