紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

彼岸花と藤沢久子先生の思い出

2004-09-21 20:18:22 | 15・心に残ること
きのうは、日野までお墓参りにいった。今年父が亡くなったので、お盆に引き続いてのお墓参りである。こんな私でも、父が亡くなると、そういうことをマメにするようになるんですね。
お彼岸ということで、彼岸花にまつわる話しを。

1995年の出来事だから、もう9年前のことになる。
その年、杉並区の西宮中学5期生の私たちは、初めて同期会を開こうということになった。私も幹事をして、先生の担当になった。住所がわかる先生に連絡をとり、出欠をお聞きする係りである。

ほぼ30年ぶりに、突然、いろんな先生に手紙を書いた。先生は、返信のはがきに当時の思い出だの、いろいろ書いてくださって、幹事っていうのは、多少やっかいでも、いいこともあるなあと思っていた。

藤沢先生という、国語担当の先生から、突然電話がかかってきたのは、そんな頃だった。「同期会は結婚式があって行けないけど、ぜひ遊びにいらっしゃいよ。」といって下さったのである。先生は埼玉県の高麗に住んでいて、近くには巾着田という彼岸花で有名な所がある。今真っ盛りだから、ぜひにと、強引とも思われるほどの口調で誘われた。

実は、私はどう返事をしたらいいか困ってしまった。中学1年の時、たった一年間教わった藤沢先生は、おそらく私のことを覚えていないだろうと思われたのだ。国語の成績は3で、全く目立たない生徒だった。
それに、口の悪い生徒たちは、陰で「山猿」とか「オールドミス」とかいっていた、その先生である。
でも、せっかくの申し出なので、幹事のTさん、Sさんを誘って一日でかけることにした。

一面彼岸花が咲いていた。あんなにたくさん、いっぺんに見たのは、初めてだった。先生は足が達者で、巾着田から、ご自宅まで、4キロくらい一緒に歩いた。途中で、栗を拾ったり(誰かの家のだと思うのだけど・・)、とても楽しい時間だった。家には、ご主人もいらして、栗ご飯をごちそうになった。



それが、藤沢先生に会った最後の時になった。先生は、1998年の6月に交通事故にあい、その年の暮れに亡くなられたのだ。翌年、お墓まいりに行こうと、ご主人に連絡をとろうとしたところ、ご主人も肺ガンで、1999年の年明けすぐに、後を追うように亡くなられたのがわかった。

今になって思うと、あの時藤沢先生は、私に会いたいというよりは、私を通して同期の人たちや、当時の同僚である先生方に、会おうとされたのだ。相変わらず、毒舌家だったけれど、中学生の頃には、あのようにさっぱりとして、自己主張のある、キリッとした人だというのは、わからないものである。あの時、行ってよかったと思う。そして、もちろんその年の同期会では、いろいろな先生や友人に、藤沢先生の写真をお見せして、一緒に彼岸花を見た日の話しをした。

◆anikobeさん「カフェテラス」 あぜ道の彩り
◆「たそがれロ~ド、たそがれ浪漫」の100万本の彼岸花
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ps)どうも新しいテンプレートが見にくいので、まだ元にもどしました。ちょっと色を変えたけど。