先日の新聞のコラムに、ネパールの大地震に関する記述がありました。
要約しますと、多くの犠牲者を出し、既に8日が過ぎ、水も食料もない、テントが欲しい・・など、
つい先ごろの日本で知るその被災地の惨状と痛みは誰もが生々しく記憶しているところである。
折しも、この五月は、大型連休と子供の日、母の日が続く楽しみな季節である。
今、私たちには、家族が無事でいて住む家があり、飲む水がある。 幸せとは、“なる”ものではなく、
“気づく”ものであるらしい と。
たしかに、そうであるのでしょう。あの、メーテルリンクの“青い鳥”も、幸せを探し求めるけれども、
結局は自分の中にあったというのもそういう事なんですね。
青い鳥
(ネットより)
話は、少し違いますけれども、“情報”についても似たところがあると思います。
かって、“情報”とは何かについて話したことがありましたが、ここでも、その主体が“気づく”、
すなわち“認識する”ことが、情報であるといえるのでしょう。
ニュース、天気予報、広告、ドキュメンタリー、小説などなどこれらすべては“情報”でありますが、
これらは、専門家あるいは誰かが作成・編集して発信され与えられたもので、これらの中から、
主体が必要、興味ある事象、目的事象を選択し、理解して(情報を得て)いるのですね。そして、
さらに、誰も発信も編集もしない“全くの事実”を、主体が見た(認識する)ことによって、
そこから“情報”(意味)を見出すのです。 同じ数字を見ても、何も感じない人と、それが大事な
“情報”と気づき、即行動に移す違いがあるのはそのためでしょう。
そして、この“情報”の場合の“気づき”は、主体が、そのことに 関心(興味・目的)を有して
いるか否か、さらには、バックグラウンドとしての知識、経験などがあるかどうかで決まってくる
のではないでしょうか。
日頃の努力の積み重ね、物事を素直に捉え、目的を失わない生活・行動にこそ、自分だけの情報
(意味)が得られ、ただ漫然と過ごしていて、他から与えられることのみ“情報”と思っている
やからには、幸せの気づきも遠いのでしょう。