蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

勝海舟

2025-01-20 | 日々雑感、散策、旅行

 書物やテレビなどでも超有名な人ですから、今さら‥の感が否めないところですが、
この1月19日が、命日なんですね。 今から126年前のことです。 享年75歳だった
そうです。

 勝海舟は、スクリュー式蒸気軍艦「咸臨丸」で渡米したり、海軍の育成に努め、
革新的な考えを持った幕臣と言われ、1868年に新政府軍が江戸に進軍した際には、
当時新政府軍の本陣がおかれた池上本門寺での西郷隆盛らとの交渉を経て、「江戸
無血開城」を実現させたことでも有名ですね。

        勝海舟(サンフランシスコにて1860年)
         (ウイキペディアより)

 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、官軍は東征し駿府城まで来るといよいよ風雲
急を告げ、徳川慶喜の意向を汲んだ海舟は、早期停戦と江戸城の無血開城を主張し
これを成し遂げるのですね。 交渉が決裂した場合には、江戸市民を千葉に避難させ
たうえで、大量の火薬を市街地に運び入れ、新政府軍を誘い入れ江戸の町もろとも
敵軍をせん滅させる焦土作戦を準備して西郷に決断を迫ったとあります。 この辺り、
新政府軍側にはイギリスが、幕府側にはフランスが付いていることなども配慮しな
がらの一大歴史的大役を果たすのですね。

                

 そんな 勝海舟は、1823年、江戸本所に御家人・勝小吉の長男として生まれ、10代の
頃から剣術、
禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となり、二十歳を過ぎる頃には蘭学を
学び私塾を開くまでになり、その才能が認められ長崎海軍伝習所に入所し、1860年
には咸臨丸で渡米するのですね。

        銅像(墨田区役所広場)
        (ウイキペディアより)

 まぁ、略歴を見ていますと、何ともエネルギッシュな活動家であったようですね。
人間的には飾らず、ぶっきらぼうな感じのようでもあり、敵も多く味方も多かった
のではないでしょうか。そんな中にあって、激動の時代をうまくかじ取りの中心人物
となり大きな活躍をするのです。
 この時代、海舟の行動の中には、咸臨丸では福沢諭吉、ジョン万次郎ら、その後
には、時代の中心にいた有名な人々、例えば、徳川慶喜、坂本龍馬、大久保利通、
佐久間象山、大村益次郎、アーネスト・サトウ・・ら多くの名前が出ていました。

 風呂上がりに脳溢血で倒れてそのまま意識不明で息を引き取ったとあります。75歳
でした。

         池上本門寺
         (Found Japan より)


 ウイキペディアに語録がありましたのでその一部を転記します。

・勝ちを望めば逆上し措置を誤り、進退を失う。防御に尽くせば退縮の気が生じ乗ぜ
られる。だから俺はいつも、先ず勝敗の念を度外に置き虚心坦懐事変に対応した。

・行政改革というものは、余程注意してやらないと弱い物いじめになるよ。肝心なの
は、改革者自身が己を改革する事だ。

・やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではない
か。どうせなるようにしかならないよ。

・いつ松を植えたか、杉を植えたか、目立たないように百年の大計を立てることが
必要さ。

・世の中に無神経ほど強いものはない。

 

                 

 明日(アメリカ時間で)1月20日、新しい大統領が就任します。国際協調などは吹っ
飛ばし、自己中心路線を強力に推し進めようとする予測不能な政策推進人物の誕生に、
世界は驚愕と不安を持って注目しているのでしょうね。もう誰も止める人はいない!

 

 

 

 

【幕末】206.2 西郷隆盛と勝海舟 江戸無血開城【戊辰戦争】

 

 

 

 


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