相模太夫の旅録=Tabi Log

☆ 旅は一枚の写真から始まる!!

☆ 旅先での四季彩々一期一会の被写体を瞬撮!!

龍ノ口法難の霊跡「寂光山龍口寺」

2013-12-23 19:49:26 | 寺院
藤沢市片瀬の龍口刑場跡に日蓮宗の本山(霊蹟寺院)「寂光山龍口寺」はある。創建は延元2年(建武4年、1337年。本尊は日蓮聖人像。日蓮聖人入滅後、直弟子の日法聖人が延元2年(1337)に「龍の口法難の霊跡」として一堂を建立し、日蓮聖人像と首の座を安置したのがこの寺の始まりである。「仁王門」前左側にある鎌倉時代罪人を斬首する刑場の跡、仁王尊像を祀る仁王門を潜り、急勾配の石段がを上ると、そこには元治元年竣工の欅造り銅板葺の「山門」(表に龍口寺/裏に寂光山の扁額、中国故事の彫刻)がある。境内左に「寂口殿」、「妙見堂」、右側に「大書院」(欅造り瓦屋葺、信州窪田家の蚕糸御殿を昭和10年に移築)、正面には欅造り銅板葺き「大本堂」(天保3年建立、敷皮堂)は重厚である。本堂右側に明治43年建立の「五重塔」(本式木造五重塔)、龍口山中腹に「七面堂」、高台に釈尊の御真骨を安置する「仏舎利塔」がある。ここから眼前に江の島・相模湾が広がる。また近くには龍口寺輪番を勤めた「腰越六寺」(本龍寺、本成寺、勧行寺、妙典寺、東漸寺、法源寺)がある。(1312)









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まだ紅葉残る長興山妙本寺

2013-12-22 10:12:24 | 寺院
鎌倉の谷戸に埋もれるように建つ大寺、日蓮宗の本山「長興山妙本寺」はある。創建は文応元年(1260)、開山は日蓮上人、開基は比企大学三郎能本、本尊は十世界曼荼羅である。ここは「比企の乱」で滅びたことで知られる比企一族の邸宅跡である。身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺院である妙本寺は「二門」(総門と二天門)、「二堂」(本堂と祖師堂)の日蓮宗の典型的な伽藍を有しその格式の高さが窺える。「総門」を入って右側には寺院の形をした比企谷幼稚園、方丈門前の道を左に進むと二代将軍頼家の室=若狭局を祀る「蛇苦止明神」(蛇苦止堂)がある。方丈門を抜け苔むした石段を上ると「寺家所」と「書院」そして風格ある「本堂」がある。その前方には天保年間(1830~43)建立された朱色をした「二天門」が視界に入ってくる。仏教の守護神四天王のうち持国天と多聞天が祀られている。二天門を抜けると宗祖日蓮と日朗、日輪を祀った大きな「祖師堂」がある。現在の建物は天保年間(1830~43)再建されたと伝えられている。祖師堂の左手には日蓮像と釈迦如来立像が安置されている「霊宝殿」がある。広大な境内に立ち並ぶ伽藍の建造物、歴史の重みが伝わってくる。訪れた日、未だ紅葉残り寺域は美しく彩られていた。今日という有限の時間に全ての事象と自己と向き合い刺激を求め能動的な旅は脳を心を研ぎ澄まさせくれる。(1109)









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熊本の総鎮守「藤崎八旗宮」

2013-12-19 22:28:40 | 神社
市内中央区井川淵に旧社格は国幣小社、熊本の総鎮守といわれている「藤崎八旗宮」(県内八幡信仰を代表する神社)はある。当社は平将門・藤原純友の乱の時、追討と九州鎮護との勅願によって承平5年(935年)京都の石清水寺八幡宮を勧請して建立された。当時は藤崎台にあったが、西南の役で焼失後、明治17年に現在の地に移転となった。ご祭神は応神天皇、神功皇后を祀る。藤の名が付くように鎮座の日、勅使が藤の鞭を地中に指したところ根付いて芽が吹き枝葉が栄えたことから「藤崎宮」とした。境内は鮮やかな朱色で統一された「本殿」、「拝殿」、「申殿」、「楼門」、「神楽殿」、「回廊」、「能楽殿」が美しく建ち並ぶ。社格制度、時代変遷を経て今も肥後の人々の信仰を集めている神社である。また参道には吉田司家(よしだつかさけ)は、現在まで800年以上の歴史を持つ、相撲の司家でその跡がある。(1103)
















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熊本赴任時過ごした住居「小泉八雲旧居」

2013-12-18 22:40:00 | 建造物
熊本市の繁華街(手取本町)という喧騒の中に平成7年に復元され市指定の有形文化財となっている「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン )旧居」が静かに佇む。明治時代、第五高等中学校(現在の熊本大学)の英語教師として熊本に赴任した際、最初の一年を過ごした住居である。八雲の作品の一つである「知られぬ日本の面影」はここで執筆されたといわれている。彼はこの家に1年間住んだ後、外坪井の家に移り、明治27年に神戸に去った。旧居内には八雲が当事礼拝していた神棚や、八雲の軌跡を記したパネルや作品が展示されており、八雲の往時の生活ぶり、執筆ぶりが覗えた。(1111)








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地名の由来となった王子神社

2013-12-17 22:06:55 | 神社
北区王子本町にこの一帯の「王子」という地名の由来でもあり、中世に熊野信仰の拠点となった神社で、「王子権現」あるいは「若一王子宮」の別称をもつ准勅祭社東京十社の「王子神社」はある。非常に高い格式を持つ神社で、最盛期には飛鳥山も支配地としていたと言われているが、創建は不詳。康平年間(1058-65)以前の平安時代に勧請されたと伝わる。主祭神は伊弉諾命、伊弉冉命、天照大御神、速玉之男命、事解之男命の五柱の神々を祀る。音無親水公園の北側にあり、境内中央の権現造りの本殿中心として周りを鬱蒼と木々が茂り、神域らしい佇まいを見せている。「王子神社のイチョウ」(都天然記念物指定)の巨木が戦災を免れ当寺のままただ一つ残っている。また「関神社」と「毛塚」があり、蝉丸が髪の祖神として祀られている。(1311)






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