母が死に父は重症で入院中のためにおばさんの元に預けられているという設定が一応示されている「ぼく」が、入院中の父に会いに行くために電車に乗って出かけるという一応の説明の下に行動する過程で、現実の世界での存在か定かでない学生たちや過去の父・母・おばさん、近隣の住人、父か「ぼく」かぼくの子どもかを象徴する子どもと行き会ったりその想い出の世界に入り込んで行く幻想的実験的小説。
語り手は「ぼく」なのですが、冒頭から語り手以外の知覚がそのまま表現され、表現の違和感というか拙さを感じます。「ぼくはおばさんに[いてきます]と書いた紙を見せた。おばさんはそれを読んで『うん』といった。そしておばさんは小さい[っ]が抜けているなあと思った。」(7ページ)、「それはとてもきれいだった。叩かれている人の目もそれを見ていた。そしてきれいだと思っていた。」(13ページ)という具合。しかし、そういった表現や現実(と思われる事実描写)と過去の自身の想い出やさらには他の人の想い出がシームレスに行き来し入れ替わる表現が続くうちに、自分と他者、過去と現在とさらには未来の境界を踏み越えてというか溶かして、俯瞰するというか俯瞰しているのかどこから見ているのかもよくわからない視点を持たせ感じさせる実験なのだなと思えてきます。
その実験的な表現と視点に不思議な陶酔感なり興味を持てれば作者の試みは成功ということでしょう。私には、ちょっと疲労感の方が勝りましたが。

山下澄人 文藝春秋 2014年2月10日発行
語り手は「ぼく」なのですが、冒頭から語り手以外の知覚がそのまま表現され、表現の違和感というか拙さを感じます。「ぼくはおばさんに[いてきます]と書いた紙を見せた。おばさんはそれを読んで『うん』といった。そしておばさんは小さい[っ]が抜けているなあと思った。」(7ページ)、「それはとてもきれいだった。叩かれている人の目もそれを見ていた。そしてきれいだと思っていた。」(13ページ)という具合。しかし、そういった表現や現実(と思われる事実描写)と過去の自身の想い出やさらには他の人の想い出がシームレスに行き来し入れ替わる表現が続くうちに、自分と他者、過去と現在とさらには未来の境界を踏み越えてというか溶かして、俯瞰するというか俯瞰しているのかどこから見ているのかもよくわからない視点を持たせ感じさせる実験なのだなと思えてきます。
その実験的な表現と視点に不思議な陶酔感なり興味を持てれば作者の試みは成功ということでしょう。私には、ちょっと疲労感の方が勝りましたが。

山下澄人 文藝春秋 2014年2月10日発行