アニメ映画「君の名は。」の制作と並行して書かれた小説だそうで、映画と小説のどちらが原作といえるかは微妙なところだと本人があとがきで書いています(254ページ)。
映画を見たときにも思ったのですが、前半で、山間部の集落糸守で神社の巫女の家系に生まれた女子高生宮水三葉と東京の男子高生立花瀧が入れ替わりを繰り返す過程で、瀧がこだわり続け、入れ替わる度に繰り返した胸を揉むこと(14~15ページ、85ページ、155ページ、200ページ)。女の体に入り込んだ男が好奇心から胸を揉みたくなる、それはよくわかる(現実に入れ替わったらどうなるのか、どういう感じなのか、もちろんわからないわけですけど)。でも、私が理解できなかったのは、瀧がいつまで経っても、何回繰り返しても、胸を揉む側の視点でいること。「見る」という行為は、基本的に見る側の意識が圧倒すると思うのですが、「揉む=触る」という行為は、自分で自分の体を触ったとき、触る側の触覚と触られる側の触覚がともにあり、むしろ触られる側の触覚の方が脳に強く感じられるように思えます。自分で自分の胸を揉むと、瀧の脳に、自分が胸を揉む感触と自分が胸を揉まれる感触がともに伝わり、揉まれる側の感触が否応なく意識されると思うのですが、女は胸を揉まれるとこういうふうに感じるんだという感想が、瀧から語られることは最後までありません。もちろん、現実にはあり得ないことを論じてもしかたないのですが、もしそういうことがあれば私なら第1に知りたいと思う女の側ではどういうふうに感じているのかに関心を持たず、さらには否応なく感じるはずのことさえ意識に上らない、そういう瀧の感受性の信じがたいほどの鈍さが、せっかく瀧に入り込んだ三葉が糸口を見つけてくれた奥寺先輩との関係を作れなかった原因なのでしょう。
確かに「スマートフォン」の略が「スマホ」になるのは論理的ではないですが、今なお「スマフォ」と書き続けるこだわりも、若干、読み味の足を引っ張ります。
新海誠 角川文庫 2016年6月25日発行
映画を見たときにも思ったのですが、前半で、山間部の集落糸守で神社の巫女の家系に生まれた女子高生宮水三葉と東京の男子高生立花瀧が入れ替わりを繰り返す過程で、瀧がこだわり続け、入れ替わる度に繰り返した胸を揉むこと(14~15ページ、85ページ、155ページ、200ページ)。女の体に入り込んだ男が好奇心から胸を揉みたくなる、それはよくわかる(現実に入れ替わったらどうなるのか、どういう感じなのか、もちろんわからないわけですけど)。でも、私が理解できなかったのは、瀧がいつまで経っても、何回繰り返しても、胸を揉む側の視点でいること。「見る」という行為は、基本的に見る側の意識が圧倒すると思うのですが、「揉む=触る」という行為は、自分で自分の体を触ったとき、触る側の触覚と触られる側の触覚がともにあり、むしろ触られる側の触覚の方が脳に強く感じられるように思えます。自分で自分の胸を揉むと、瀧の脳に、自分が胸を揉む感触と自分が胸を揉まれる感触がともに伝わり、揉まれる側の感触が否応なく意識されると思うのですが、女は胸を揉まれるとこういうふうに感じるんだという感想が、瀧から語られることは最後までありません。もちろん、現実にはあり得ないことを論じてもしかたないのですが、もしそういうことがあれば私なら第1に知りたいと思う女の側ではどういうふうに感じているのかに関心を持たず、さらには否応なく感じるはずのことさえ意識に上らない、そういう瀧の感受性の信じがたいほどの鈍さが、せっかく瀧に入り込んだ三葉が糸口を見つけてくれた奥寺先輩との関係を作れなかった原因なのでしょう。
確かに「スマートフォン」の略が「スマホ」になるのは論理的ではないですが、今なお「スマフォ」と書き続けるこだわりも、若干、読み味の足を引っ張ります。
新海誠 角川文庫 2016年6月25日発行