なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その4

2021年02月03日 05時00分00秒 | 義道
高校時代

 高校は中学よりも楽しかった。父親と顔を合わす時間が少ないだけ楽だったのかもしれない。
 選択科目は美術を選び、部活は山岳部に入った。旧制中学のバンカラ気風が残る高校で、下駄で通学する生徒が多かった。
 山岳部で1か月ほど経った頃体育の授業でサッカーをやった。体育の村上先生は国体でサッカーの山形県代表選手だった人。授業終了後、先生からサッカー部に来ないかと誘われた。「腰がしっかりしている」というようなことを言っていた。誘ってもらったのはうれしいが、せっかく山岳部に入って楽しさも感じていたのでどうしようか迷っていた。すると、村上先生とその先輩である中学担任の草壁先生が家にやって来た。二人してサッカー部に入れという。親は、山岳部に入ったことを心配していたので、もろ手を挙げて賛成に回った。そこまで言われればと、山岳部に未練を残しながら転部することにした。
山岳部の部長に相談すると何故か「その方がいい」と言う。一抹の寂しさはあったがスパイクを買ってサッカー部の門を叩いた。しかし、部内の空気は山岳部とはまるで違っていた。先輩後輩の上下関係がはっきりしていて、言葉遣いも態度もガツガツして、競争の世界だと思った。それが高校の運動部なのだとは思うが、自分には遊び部のようなゆるゆるの山岳部が合っていると感じ始めた。悩んだ末、1週間で山岳部に戻させてもらった。
 山岳部では毎月のように神室山系に登り、夏冬の合宿にも行った。2年生後半からはリーダー、部長を務め、国体予選にも参加した。その山岳部の仲間で副部長だった荒井利弥君が平成19年9月17日51歳で亡くなったのはショックだった。もう一つ残念だったのは、1年生の時、3年生の先輩が部室でタバコを吸っていたのが見つかり、夏合宿の朝日連峰縦走が中止になったことだった。一つ上の先輩は激怒していた。

 入学直後、先輩から「何月生まれだ」と聞かれた。「5月です」と言うと「春組か」と言う。この高校は、生まれ月によって運動会の組分けが決まっていた。3から5月が春組、6から8月が夏組、9から11月が秋組、12から2月が冬組という具合に。当然組の人数が違う、平等ではないのだ。優勝するのはたいがい人数が多い春か夏と決まっている。3学年の時、戦後初めて冬組が単独3位になった。そのことで優勝した春組よりも大喜びをしていた。学校の先生も全員が生れ月によって組分けされていて、その出番もあった。先生たちは何故か冬組が多かった。
これはその当時の話なので時効として話をすれば、単独3位を喜んだ冬組の先生たちが、春組の陣地部屋にやって来て「ありがとう!」と酒を置いていった。当然先生方も生徒たちも飲んでいた。今では信じられないことだが、そんな気風だった。3年のクラスマッチの時も、早々に全部負けてしまって教室で飲んでいた。酒に酔ったまま汽車で帰った生徒が他校の先生から見つけられ、学校に注意があった。次の日先生が教室で放った言葉がおかしい「お前ら、見つかるな」。
 文化祭でも飲んだ。クラスで模擬店をやって、おでんを販売した。許可の条件は材料費だけの売り上げにして儲けてはダメだということだった。その条件を飲んで販売したがちゃんと二重帳簿を付けていて、浮かした金で打ち上げをした。とにかく酒を飲む高校だった。
新庄北高は2学年から理系と文系に分かれて、そのクラスはそのまま3学年に持ち上がる仕組みだった。4組の担任の丹先生がまたよかった。今考えれば20代のまだ若い先生で、みんな兄のように慕っていた。
3年の夏休み直前、校舎が新築移転することになり、教室の机と椅子は自分たちで運ぶということだった。自分の分をそれぞれに運ぶクラスもあったが、我が4組は全員が一団となって旗を先頭に20分程の行程を行進した。旧教室の前の廊下には中庭向けの大時計が据え付けてあった。いつからか止まっていて動かない時計ではあるが、このメモリアルの時計は我々の責任で新校舎に運ぶ使命がある、と勝手に決め込んで、大風呂敷に包んで私が担いで運んだ。そのクラスの仲間は50年近く経った今も時折顔を合わせる仲として続いている。

大学はどうせ駒澤大学仏教学部だからと、甘く考えていた。その頃の駒澤大学は「日、東、駒、専」と一括りに呼ばれた二流?三流?大学で、中でも仏教学部は合格ラインが低かった。受験勉強も適当に構えていた。学校を理由もなく友だちと早退して、汽車の中でウィスキーのポケット瓶をあおりながら帰ったこともあった。
ただ、宿命と思っていたことに抗ってみたいという気持ちも湧いてきていた。駒澤大学仏教学部でなければどうなのだろうかと。駒澤大学以外の大学で親を納得させるには二流三流大学ではダメだ、せめて六大学でなければ、ということで、全国模試の合格ラインで某大学の文学部であれば頑張れば入れなくはなさそうだ。そう思いついてから慌てて受験勉強を始めた。受験の数か月前だったと思う。一応は受けた。受かってからどうするか考えようと思っていた。考える必要はなかった。見事に落ちた。結局駒澤大学仏教学部以外に行きようはなかった。それでもまだ抵抗したい気持ちが残っていた。
いよいよ明日は上京だという時に、頭にパーマをかけて行こうと思った。どんくさい田舎者だと思われないように精いっぱい都会風にして行こうと思った。母親に町で一番モダンなパーマ屋はどこだと聞いてそこへ行った。行く前に男性パーマができるかと電話で確かめるとできると言う。店に行くと「どんな髪型にしたいのか」と聞く。当然「野口五郎のように」と答えた。「分かった」と言う。分かったというからにはできるのだと思っていた。クルクル巻いたり臭い液体をかけたり洗ったりして「できました」と言う。鏡を見て顔が青冷めた。鏡に映ったのは、野口五郎ではなく、どう見ても天地真理だった。
その晩家族で最後の食事をした。姉が「お前もこれでようやく決心したんだな」と言う。それに対して「いや、和尚の道しかないかどうかを探しに行くんだ」と、まだ抵抗していた。
次の日、天地真理のまま東京に向かった。