なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その5

2021年02月10日 05時00分00秒 | 義道
大学時代

大学にはお寺の徒弟のための寮があった。寮費も安いしそこに行く気はないかと父親に聞かれた。当然そんなところに行く気はなかった。頭を丸めて学生服を着てお坊さんと一緒に生活するなどまっぴらだった。東京に行くのならアパートでの一人暮らし以外に考えられなかった。駒澤大学に行きたいのではない、親から離れて誰も知らないところで自由に暮らしたかっただけなのだ。
入学したての頃、親の印鑑をもらう必要のある書類があって封書で送った。すぐに送り返してもらいたくて公衆電話から電話した。「はいはい」と出たのは母親だった。「俺だ」と言うと、「お前かー」と言うなり涙声になっている。「お前な、手紙をよこすなら、なんで何か一言でも書いてよこさないんだ。父ちゃんは封筒の表と裏を何度もながめていたぞ」。
上京して初めて送った封書だった。電話のある生活ではない。ご飯食べているのか。大学はどうなのか。ちゃんと一人暮らしできているのだろうか。心配していたところに届いた初めての手紙。そこに入っていたのはペラッと一枚書類だけだった。今なら当時の親の気持ちが分かる。しかし、その時は、慮るということのできない親不孝だった。

仏教学部禅学科はほとんどがお寺の息子で、寮生も多く、色のついた服を着てパーマをかけている学生は見事に浮いていた。おそらく誰もお寺の息子だとは思わなかったろう。それでよかった。ほとんど誰とも話をしなかった。ただ、選択した第二外国語のフランス語の授業で後ろの学生服と二言三言会話を交わした。前期試験の成績を見せ合った。わずかに私の方が点数が良かった。ところがそれは最初の一瞬だけで、その後はその差が末広がりに開いていって、彼は大学を首席で卒業し、卒業式の答辞を述べ、現在駒澤大学の人気教授になっている。
頭を丸めた友だちは一人もつくらず、もっぱらサークル活動の仲間と遊んでいた。入ったサークルは広告研究会だった。クリエイティブな活動に関心があった。伝統のある文化部らしく、理論班、調査班、アート班、コピー班に分かれていて、その中のアート班に入った。広告作品のデザインを担当するグループだ。文字も全部手書きするので、面相筆を使ってレタリングなどをやっていた。どこをターゲットにしてどういうコンセプトで、という広告制作のノウハウにワクワクしていた。
しかし、何が気に入らなかったのか忘れてしまったが1年でやめてしまった。2年目バイトしながらぶらぶらしていると、同じく広研をやめた3人が新しいサークルを作らないかと誘いに来た。4人で構想を練り「駒沢オリジナルソサエティー」というサークルを作り2・3・4年と遊んだ。
バイトもした。1年から3年の夏休みは千葉の岩井海岸で牛乳屋のバイトをした。林間学校にやって来る小学生に浜まで牛乳を配達するのと、海の家の冷蔵庫の商品補充だった。歳末の時期はお歳暮配達、ロシアレストランのウエイター、小料理屋の洗い場など、遊ぶ金欲しさに色々やった。

4年生になると卒論を書くためのゼミを選択しなければならない。周りの噂を聞いて簡単に単位をくれるらしいという理由で皆川ゼミを選択した。ゼミの内容は現代の布教を考える「教化学」。同じ理由で選択した学生が教室にあふれ、ゼミとも呼べない状況だった。
11月だったか、教化研修所が毎年この時期に教化学大会というのを開催していた。何故か皆川教授から「君、出席してみないか」と誘われ、何故か行く気になった。ぼさぼさ頭を七三に分けて、一張羅のブレザーにネクタイを締めて、緊張して大会の教場に行った。二日間にわたって教授陣や研究者、研修生が次々と発表を行う。同じく聴講に来た女性が「今年は素晴らしい顔ぶれですね」と声をかけてきた。「はあ」と言ったが講師の誰一人も知らなかった。
今回は特別講義があるという。「講師、ヨーロッパ海外開教師弟子丸泰仙老師」。名前も開教師という肩書も聞いたことがなかった。しかし、老師が壇上に上がるときのオーラのようなものは強く感じた。「何だこの人は!」と目が釘付けになった。弟子丸老師は、坐禅の坐蒲一つを抱えて単身フランスに渡り、言葉も分からないので演壇上で90分黙って坐禅した。その姿に心惹かれた人が次から次へと訪ねて来て、ヨーロッパ禅センターの礎を築いたという伝説の人だった。
「何?この人」「開教師って何?」と関心をもって資料を読んでみると、曹洞宗教化研修所には海外開教コースというのがあるらしいということを知った。そこに入ればあの人のようになれるのだろうか。住職の仕事が死んだ人を相手にするだけではなく、仏教が伝わっていないところへ布教に行くというのはダイナミックではないか、とワクワクしてきた。