三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第301回。2月14日、日曜日。
大きな地震でしたが皆さん大丈夫でしょうか。
まだ詳細の状況は見えてきません。無事を祈ります。津波がなかったことが幸いです。
「断捨離」というと、思い切って物を整理する捨てるというような片付け術として使われていますが、もともとはヨガの「断行、捨行、離行」に起源があるようですね。
つまり、「断行」外からの情報を断つ、「捨行」不要なものを捨てる、「離行」執着から離れる、という意味のようです。
坐禅中の心の中は常に妄想が浮かび上がってきますが、それを追いかけるとついつい思索に入ったりします。ひらめきやアイデアが浮かんできたり、言葉や文章を考えたりしてしまいます。
それは坐禅としてはいい状態ではありません。
浮かんでは消える泡のように、思いがサラサラと流れている方が頭の中が軽くすっきりしています。
それで、最近それは「断捨離」だなと思います。
音や映像のような情報を環境的に遮断する。
悩みや心配事、思い出を捨てる。
思索やストーリーから離れる。
坐禅中に「断捨離」という言葉を想念すれば一瞬妄想は消えます。
鼻端に意識を寄せ、呼吸を意識すれば尚、妄想から離れることができます。
しかし長続きしません。すぐに妄想は次から次へと湧いてきます。
するとまた「断捨離」を想念することを繰り返します。
坐禅中の今この時間は、全てを忘れて何も考えなくてもいい時間なのだ。悩みや心配もこの時間は捨ててもいいんだ、と思えば楽になると思います。
「なんであんなことをしたんだろう」「どうしてあんなことを言ってしまったのか」。
悔やんでもどうにもならない過ぎ去った嫌な思いが浮かんできても、今だけは離れてもいいと思えば緊張が解けるのではないでしょうか。深呼吸できると思います。
明日2月15日は、お釈迦様入滅の「涅槃会」です。
「涅槃」は、インドの言葉を漢字に当て字をしたもので、「ニルバーナ」のことです。
「ニルバーナ」とは、炎が吹き消えた状態を指し、煩悩が消えた悟りのことを言います。
その涅槃には「有余涅槃」と「無余涅槃」の二つあるとされ、「有余涅槃」は肉体はありながら、煩悩の炎が全て消え去ったいわゆる悟りの状態。しかし、肉体があるうちは肉体的な根本欲求が消えていないということで、お釈迦様の生前のお悟りは「有余涅槃」となります。
それに対して「無余涅槃」は、肉体も滅んだ状態でこちらが完全な涅槃だとされます。
そこから、お釈迦様の入滅を身心ともに滅した完全なニルバーナというこで、単に「涅槃」と呼ぶようになりました。
ということで、生きている間は完全なニルバーナにはなれません。
一瞬煩悩から離れたと感じても、すぐに炎は立ち上がります。
命の炎は燃え続けているのですから仕方ありません。
なので断捨離し続けなければならないのです。
部屋の物も、一旦思い切って捨てたとしてもすぐにまたゴチャゴチャしてくるでしょ。
断捨離は思い切ることではなく、継続することなのです。
さて涅槃会。
お釈迦様は主役として涅槃図に描かれています。
しかし、これは全ての人々を代表として描かれていると言えるでしょう。
全ての人は生まれながらにして自分の人生の主役に任じられています。
お釈迦様は誕生してすぐに七歩歩き、天地を指して「天上天下唯我独尊」と言われたと。
それは、全ての人が生まれながらに唯一無二の存在である、つまり主役であるとの宣言です。
人は、みんなが笑顔で迎える中、自分は泣きながら生まれます。主役の誕生です。
そして死にゆくとき、みんなが涙を流して見送る中、主役は笑顔で退場したいですね。
それが逆だと大変です。
生まれる時にみんなが泣いて、旅立つときにみんなから笑われたのでは悲しいです。
涅槃の図 みな泣いていて あたたかし (阿部月山子)
(これは正岡子規の句だと何かで読んだ気がしていましたが、山形在住の俳人月山子の句だと今知りました)
みんなに泣いてもらえるような生き方をしなければなりません。
誕生から涅槃まで主役を演じきらなければなりません。
みんなが泣いてくれる中を、堂々と笑ってお別れできるような生き方をしましょう。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
大きな地震でしたが皆さん大丈夫でしょうか。
まだ詳細の状況は見えてきません。無事を祈ります。津波がなかったことが幸いです。
「断捨離」というと、思い切って物を整理する捨てるというような片付け術として使われていますが、もともとはヨガの「断行、捨行、離行」に起源があるようですね。
つまり、「断行」外からの情報を断つ、「捨行」不要なものを捨てる、「離行」執着から離れる、という意味のようです。
坐禅中の心の中は常に妄想が浮かび上がってきますが、それを追いかけるとついつい思索に入ったりします。ひらめきやアイデアが浮かんできたり、言葉や文章を考えたりしてしまいます。
それは坐禅としてはいい状態ではありません。
浮かんでは消える泡のように、思いがサラサラと流れている方が頭の中が軽くすっきりしています。
それで、最近それは「断捨離」だなと思います。
音や映像のような情報を環境的に遮断する。
悩みや心配事、思い出を捨てる。
思索やストーリーから離れる。
坐禅中に「断捨離」という言葉を想念すれば一瞬妄想は消えます。
鼻端に意識を寄せ、呼吸を意識すれば尚、妄想から離れることができます。
しかし長続きしません。すぐに妄想は次から次へと湧いてきます。
するとまた「断捨離」を想念することを繰り返します。
坐禅中の今この時間は、全てを忘れて何も考えなくてもいい時間なのだ。悩みや心配もこの時間は捨ててもいいんだ、と思えば楽になると思います。
「なんであんなことをしたんだろう」「どうしてあんなことを言ってしまったのか」。
悔やんでもどうにもならない過ぎ去った嫌な思いが浮かんできても、今だけは離れてもいいと思えば緊張が解けるのではないでしょうか。深呼吸できると思います。
明日2月15日は、お釈迦様入滅の「涅槃会」です。
「涅槃」は、インドの言葉を漢字に当て字をしたもので、「ニルバーナ」のことです。
「ニルバーナ」とは、炎が吹き消えた状態を指し、煩悩が消えた悟りのことを言います。
その涅槃には「有余涅槃」と「無余涅槃」の二つあるとされ、「有余涅槃」は肉体はありながら、煩悩の炎が全て消え去ったいわゆる悟りの状態。しかし、肉体があるうちは肉体的な根本欲求が消えていないということで、お釈迦様の生前のお悟りは「有余涅槃」となります。
それに対して「無余涅槃」は、肉体も滅んだ状態でこちらが完全な涅槃だとされます。
そこから、お釈迦様の入滅を身心ともに滅した完全なニルバーナというこで、単に「涅槃」と呼ぶようになりました。
ということで、生きている間は完全なニルバーナにはなれません。
一瞬煩悩から離れたと感じても、すぐに炎は立ち上がります。
命の炎は燃え続けているのですから仕方ありません。
なので断捨離し続けなければならないのです。
部屋の物も、一旦思い切って捨てたとしてもすぐにまたゴチャゴチャしてくるでしょ。
断捨離は思い切ることではなく、継続することなのです。
さて涅槃会。
お釈迦様は主役として涅槃図に描かれています。
しかし、これは全ての人々を代表として描かれていると言えるでしょう。
全ての人は生まれながらにして自分の人生の主役に任じられています。
お釈迦様は誕生してすぐに七歩歩き、天地を指して「天上天下唯我独尊」と言われたと。
それは、全ての人が生まれながらに唯一無二の存在である、つまり主役であるとの宣言です。
人は、みんなが笑顔で迎える中、自分は泣きながら生まれます。主役の誕生です。
そして死にゆくとき、みんなが涙を流して見送る中、主役は笑顔で退場したいですね。
それが逆だと大変です。
生まれる時にみんなが泣いて、旅立つときにみんなから笑われたのでは悲しいです。
涅槃の図 みな泣いていて あたたかし (阿部月山子)
(これは正岡子規の句だと何かで読んだ気がしていましたが、山形在住の俳人月山子の句だと今知りました)
みんなに泣いてもらえるような生き方をしなければなりません。
誕生から涅槃まで主役を演じきらなければなりません。
みんなが泣いてくれる中を、堂々と笑ってお別れできるような生き方をしましょう。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。