教化研修所時代
正月山形に帰ると、親に曹洞宗教化研修所の入所案内を見せてみた。「何?ここに入りたいって?ようやく大学が終わって帰ってくると思っていたのに、あと3年?それは無理だ」。予想していた反応だった。どうせそうだと思っていた。大学を卒業したら永平寺かどこかに修行に行って、帰ったら役場にでも勤めて、土日にお寺の仕事をする、そういう運命なのだろう。
つぎの朝、母親から呼び止められた。「お前本当にそこに行きたいのか?」と改めて聞かれた。「昨日一晩、父ちゃんとしゃべって、お前が初めて自分から勉強したいと言った。何とかならないだろうか相談した。試験があるなら、受かるかどうか受けるだけ受けてみればどうだ」と言う。それならばと、それから少し頑張って受験した。
何とか合格してその入所許可書が実家に送られてきた。それを見た父親から連絡がきた。「これは何だ?教化研修所は分かったが『海外開教コース』とは何だ。お前そこを終わったら海外に行くつもりじゃないだろうな?そんなことを許可した覚えはない。そんなことなら辞めてさっさと帰って来い!」という剣幕だった。
そこで、教研の主事に相談した「せっかく合格させてもらったのですが、海外開教コースはダメだというので辞めさせてもらいます」。「そうかそれは残念だな。海外コースが誰も居なかったので期待していたんだけどな。じゃあ他のどのコースにする?」。「え、他のコースでもいいんですか?」ということで、一般コースに入れてもらった。
大学後半から教研に入ったころは悩み多い時代だった。過去の自分の言動を顧みて自己嫌悪に落ち込む毎日だった。その原因は何かと考えた自分の答えは「暇だから」だった。暇だから色んなことを考えて落ち込むんだ。暇な時間をなくしてしまえば悩む時間も無くなるだろう、それが答えだった。なので、教研に入ってからは、とにかく予定表の余白を埋めることに必死だった。幸い教研には、様々な情報が集まってきて、希望すれば色んな活動に参加できた。大学の日曜講座坐禅会、BBS(非行少年の更生を目的にしたボランティア活動)、仏教伝道協会友の会事務局、老人ホーム慰問伝道等々、そして難民支援活動。真っ黒く書き込まれたスケジュール帳を眺めては安心していた。いつの間にか悩むことも少なくなっていた。
教研の入所者は通常1年に5名程度だが、前年の研修生が3名ということもあってか我々の同期は8名(入所は9名だったが1名すぐに辞めてしまった)だった。先輩も同期も個性的な人たちばかりで大いに刺激を受けた。中には「この人本当にお坊さんだろうか」というような人もいて、自分も居心地がよかった。
カリキュラムは理論と実践ということで、講義や共同研究、発表があり、その他に老人ホーム慰問伝道や坐禅会の実施、本山研修や合宿、布教師養成所などもあった。
教研2年目にカンボジア難民問題が大きくクローズアップされた。曹洞宗は「同じアジアの仏教徒の苦しみを座視することはできない」と、募金を集め「曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC)」という組織を作ってボランティアを募集した。全国の青年僧侶や宗門大学の学生に参加を呼びかけ、教研にも募集が届いた。「夏休みを利用して行く者はいないか」と誘われ、すぐに手を挙げた。元々、ここに入ろうと思ったのは海外で活躍してみたいと思ったからで、そういう機会があるならば是非行ってみたいと思った。当初1か月間ということで夏休みを利用してという話だったが、直前になって現地から「1か月間ボランティアはもう必要ない。最低2か月いてくれる人でなければダメだ」という連絡が来た。それを主事の中野先生に相談すると「1か月という予定で行って、現地から帰れませんと言われれば仕方ないよね」と言われた。「なるほど、分かりました。1か月行ってきます」。
正月山形に帰ると、親に曹洞宗教化研修所の入所案内を見せてみた。「何?ここに入りたいって?ようやく大学が終わって帰ってくると思っていたのに、あと3年?それは無理だ」。予想していた反応だった。どうせそうだと思っていた。大学を卒業したら永平寺かどこかに修行に行って、帰ったら役場にでも勤めて、土日にお寺の仕事をする、そういう運命なのだろう。
つぎの朝、母親から呼び止められた。「お前本当にそこに行きたいのか?」と改めて聞かれた。「昨日一晩、父ちゃんとしゃべって、お前が初めて自分から勉強したいと言った。何とかならないだろうか相談した。試験があるなら、受かるかどうか受けるだけ受けてみればどうだ」と言う。それならばと、それから少し頑張って受験した。
何とか合格してその入所許可書が実家に送られてきた。それを見た父親から連絡がきた。「これは何だ?教化研修所は分かったが『海外開教コース』とは何だ。お前そこを終わったら海外に行くつもりじゃないだろうな?そんなことを許可した覚えはない。そんなことなら辞めてさっさと帰って来い!」という剣幕だった。
そこで、教研の主事に相談した「せっかく合格させてもらったのですが、海外開教コースはダメだというので辞めさせてもらいます」。「そうかそれは残念だな。海外コースが誰も居なかったので期待していたんだけどな。じゃあ他のどのコースにする?」。「え、他のコースでもいいんですか?」ということで、一般コースに入れてもらった。
大学後半から教研に入ったころは悩み多い時代だった。過去の自分の言動を顧みて自己嫌悪に落ち込む毎日だった。その原因は何かと考えた自分の答えは「暇だから」だった。暇だから色んなことを考えて落ち込むんだ。暇な時間をなくしてしまえば悩む時間も無くなるだろう、それが答えだった。なので、教研に入ってからは、とにかく予定表の余白を埋めることに必死だった。幸い教研には、様々な情報が集まってきて、希望すれば色んな活動に参加できた。大学の日曜講座坐禅会、BBS(非行少年の更生を目的にしたボランティア活動)、仏教伝道協会友の会事務局、老人ホーム慰問伝道等々、そして難民支援活動。真っ黒く書き込まれたスケジュール帳を眺めては安心していた。いつの間にか悩むことも少なくなっていた。
教研の入所者は通常1年に5名程度だが、前年の研修生が3名ということもあってか我々の同期は8名(入所は9名だったが1名すぐに辞めてしまった)だった。先輩も同期も個性的な人たちばかりで大いに刺激を受けた。中には「この人本当にお坊さんだろうか」というような人もいて、自分も居心地がよかった。
カリキュラムは理論と実践ということで、講義や共同研究、発表があり、その他に老人ホーム慰問伝道や坐禅会の実施、本山研修や合宿、布教師養成所などもあった。
教研2年目にカンボジア難民問題が大きくクローズアップされた。曹洞宗は「同じアジアの仏教徒の苦しみを座視することはできない」と、募金を集め「曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC)」という組織を作ってボランティアを募集した。全国の青年僧侶や宗門大学の学生に参加を呼びかけ、教研にも募集が届いた。「夏休みを利用して行く者はいないか」と誘われ、すぐに手を挙げた。元々、ここに入ろうと思ったのは海外で活躍してみたいと思ったからで、そういう機会があるならば是非行ってみたいと思った。当初1か月間ということで夏休みを利用してという話だったが、直前になって現地から「1か月間ボランティアはもう必要ない。最低2か月いてくれる人でなければダメだ」という連絡が来た。それを主事の中野先生に相談すると「1か月という予定で行って、現地から帰れませんと言われれば仕方ないよね」と言われた。「なるほど、分かりました。1か月行ってきます」。