難民キャンプ時代
昭和55年(1980)8月4日、初めての海外としてタイに着いた。カンボジア国境近くのサケオ難民キャンプに入り、初めて難民と呼ばれる人々と出会った。というよりも、当初、その人たちを見ていいのだろうかと躊躇した。もちろん見物に来たわけではないが、「見世物じゃない」と思われないだろうか。ここに来る資格が自分にあるのだろうかと自問しながら恐る恐る近づいて行った。当時、このキャンプの他にもいくつかの難民キャンプがあり、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統治の下約20~30万人のカンボジア人が難民として収容されていた。住居は仮設の竹とニッパヤシでできたものと木材とスレートでできたものがあった。住民にとっては竹とニッパヤシの方が涼しく好まれていた。
JSRCの活動は移動図書館だった。そんなものが難民支援になるのかと思った。カンボジアのポル・ポト政権の3年8か月は徹底した教育破壊を行い、教育を受けた知識人は見つけ次第殺され、「焚書政策」で全ての印刷物が焼き払われた。眼鏡をかけているのは教育を受けた証拠だということで殺され、眼鏡をはずしても耳の弦の跡だけで殺された。時計をしているのはブルジョアだと殺され、時計を捨てても日焼けの跡だけで殺された。
難民キャンプに仮設の学校ができ、読み書きの勉強も始まっていた。しかし、教科書も本も何もない環境で、子どもたちが文字を覚えてもそれが何の役に立つのか、読む本がなければ学ぶ意味が見いだせない。そんな学校へ日本の絵本にカンボジアの言葉クメール語の訳文を張り付けた図書を持ち込み子どもたちに見せた。子どもたちの目が輝いた。初めて見るきれいな絵、扉を開くとそこに書いてある文字が読める。夢中で読む声は「まるで蚕が桑の葉を食べるようだ」と、その時視察に訪れた無著成恭先生が感嘆の声を漏らした。人は食糧のみを食べて生きるのではなかった。文字を食べ、教育を糧として生きていくのが人間だった。移動図書館が難民支援になるのかという私の疑問は実に浅はかな思慮だった。
こんなことがあった。絵本を読む時間の後にお楽しみもあったらいいということでゲームやマジックを行った。山口から参加した老僧はマジックが得意だった。初めて見るマジックショーに子どもたちは驚きと戸惑いをもってながめていた。おもちゃのピストルを撃つと風船が破れトランプが飛び出すというマジックを行ったとき、子供も大人も蜘蛛の子を散らすように逃げた。彼らは、本物のピストルしか見たことがなかったのだ。
ただ生きているだけの難民にとって、子どもたちが笑顔で歓声をあげることは、それを見る大人にとっても生きる希望をもたらすものだった。それが移動図書館のねらいだった。
しばらくして、クリスチャンの日本人女性が難民の住居に住み込んでいることを知り、その縁でトン・バン一家と知り合いになった。
トン・バンお父さんニャン・サンお母さん、ハッチ、ホッチ、モッチ、マーチの兄弟姉妹、里子のブン・ラーという7人が狭い仮設の家で生きていた。毎日のように顔を出し、友達のようになっていた。
2か月が経つ頃、「今晩夕食を食べに来ないか」と誘われた。「え、難民の家で食事?」「お断りするのも失礼なのかな」ということで出かけた。正直おいしいとは思えなかったが何とか食べた。食事が終わってお母さんが「この子たちの上に兄と姉がいたが殺されてしまった。だから今日からお前は私の子どもだよ」と言ってくれた。以来、「お父さん」「お母さん」と呼んで家族としてつき合ってきた。やがて家族は難民として日本にやって来たが、お父さんもお母さんも日本で亡くなりお骨の一部は松林寺に安置してある。ホッチ、モッチ、マーチは今も日本に住んで「お兄さん」と慕ってくれる。
難民キャンプに来て、和尚の仕事が死んでからの役目ではないとはっきり気がついた。今現実の世界で苦しむ人々の傍に寄り添い、共に悩み共に考え共に問題解決の道を探す、それも和尚の仕事だったんだ。そういう仕事ならばやってみたいと、初めて自覚的に和尚になろうと思った。私が本当に出家したのは難民キャンプだった、と今思う。
難民キャンプから帰ってからも、ボランティア仲間が集まり日本でできる支援活動を始めていた。それは日本にやってきたカンボジア難民のためのカンボジア語の図書館活動だった。図書カードを作りそれを翻訳して郵送で貸し出すというシステムだった。その図書館を置いたのは、原宿のアパートの一室で、そこは、団体の会長である松永然道師のお弟子さんアン・サージェント慈芳さんが借りている部屋だった。アメリカ女性の慈芳さんは、航空機ボーイング社の元部長で、現在全ての飛行機に搭載されているブラックボックスを開発したというすごい人だった。松永師が開教師でアメリカにいた時に坐禅に来て、そのまま出家し師僧について日本までやってきた。その空き部屋のドアに、手書きの看板「曹洞宗ボランティア会」を張り付けて事務所としていた。
曹洞宗教団が立ち上げた難民支援団体は2年を待たずに活動の停止を決めた。ボランティアの仲間たちは、そこに難民が居るのにやめるわけにはいかない。教団がやめるならば自分たちだけで活動を引き継げないだろうかと上馬の私のアパートで相談した。有馬実成師とボランティアOB・OGたちが集まって話し合った結果、昭和56(1981)年12月正式に「曹洞宗ボランティア会」の設立を見た。57年(1982)2月、その事務所を五反田に探し、私のアパートにあった電話、机、スタンド、本棚、冷蔵庫など家財道具のほとんどをそこに運んで永平寺に行った。研修所での3年が過ぎ、いよいよ修行に行かなければならないこととなった。それを拒む理由はもうなかった。どうせ行くなら、一番厳しいと言われる永平寺しかないと思っていた。
昭和55年(1980)8月4日、初めての海外としてタイに着いた。カンボジア国境近くのサケオ難民キャンプに入り、初めて難民と呼ばれる人々と出会った。というよりも、当初、その人たちを見ていいのだろうかと躊躇した。もちろん見物に来たわけではないが、「見世物じゃない」と思われないだろうか。ここに来る資格が自分にあるのだろうかと自問しながら恐る恐る近づいて行った。当時、このキャンプの他にもいくつかの難民キャンプがあり、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統治の下約20~30万人のカンボジア人が難民として収容されていた。住居は仮設の竹とニッパヤシでできたものと木材とスレートでできたものがあった。住民にとっては竹とニッパヤシの方が涼しく好まれていた。
JSRCの活動は移動図書館だった。そんなものが難民支援になるのかと思った。カンボジアのポル・ポト政権の3年8か月は徹底した教育破壊を行い、教育を受けた知識人は見つけ次第殺され、「焚書政策」で全ての印刷物が焼き払われた。眼鏡をかけているのは教育を受けた証拠だということで殺され、眼鏡をはずしても耳の弦の跡だけで殺された。時計をしているのはブルジョアだと殺され、時計を捨てても日焼けの跡だけで殺された。
難民キャンプに仮設の学校ができ、読み書きの勉強も始まっていた。しかし、教科書も本も何もない環境で、子どもたちが文字を覚えてもそれが何の役に立つのか、読む本がなければ学ぶ意味が見いだせない。そんな学校へ日本の絵本にカンボジアの言葉クメール語の訳文を張り付けた図書を持ち込み子どもたちに見せた。子どもたちの目が輝いた。初めて見るきれいな絵、扉を開くとそこに書いてある文字が読める。夢中で読む声は「まるで蚕が桑の葉を食べるようだ」と、その時視察に訪れた無著成恭先生が感嘆の声を漏らした。人は食糧のみを食べて生きるのではなかった。文字を食べ、教育を糧として生きていくのが人間だった。移動図書館が難民支援になるのかという私の疑問は実に浅はかな思慮だった。
こんなことがあった。絵本を読む時間の後にお楽しみもあったらいいということでゲームやマジックを行った。山口から参加した老僧はマジックが得意だった。初めて見るマジックショーに子どもたちは驚きと戸惑いをもってながめていた。おもちゃのピストルを撃つと風船が破れトランプが飛び出すというマジックを行ったとき、子供も大人も蜘蛛の子を散らすように逃げた。彼らは、本物のピストルしか見たことがなかったのだ。
ただ生きているだけの難民にとって、子どもたちが笑顔で歓声をあげることは、それを見る大人にとっても生きる希望をもたらすものだった。それが移動図書館のねらいだった。
しばらくして、クリスチャンの日本人女性が難民の住居に住み込んでいることを知り、その縁でトン・バン一家と知り合いになった。
トン・バンお父さんニャン・サンお母さん、ハッチ、ホッチ、モッチ、マーチの兄弟姉妹、里子のブン・ラーという7人が狭い仮設の家で生きていた。毎日のように顔を出し、友達のようになっていた。
2か月が経つ頃、「今晩夕食を食べに来ないか」と誘われた。「え、難民の家で食事?」「お断りするのも失礼なのかな」ということで出かけた。正直おいしいとは思えなかったが何とか食べた。食事が終わってお母さんが「この子たちの上に兄と姉がいたが殺されてしまった。だから今日からお前は私の子どもだよ」と言ってくれた。以来、「お父さん」「お母さん」と呼んで家族としてつき合ってきた。やがて家族は難民として日本にやって来たが、お父さんもお母さんも日本で亡くなりお骨の一部は松林寺に安置してある。ホッチ、モッチ、マーチは今も日本に住んで「お兄さん」と慕ってくれる。
難民キャンプに来て、和尚の仕事が死んでからの役目ではないとはっきり気がついた。今現実の世界で苦しむ人々の傍に寄り添い、共に悩み共に考え共に問題解決の道を探す、それも和尚の仕事だったんだ。そういう仕事ならばやってみたいと、初めて自覚的に和尚になろうと思った。私が本当に出家したのは難民キャンプだった、と今思う。
難民キャンプから帰ってからも、ボランティア仲間が集まり日本でできる支援活動を始めていた。それは日本にやってきたカンボジア難民のためのカンボジア語の図書館活動だった。図書カードを作りそれを翻訳して郵送で貸し出すというシステムだった。その図書館を置いたのは、原宿のアパートの一室で、そこは、団体の会長である松永然道師のお弟子さんアン・サージェント慈芳さんが借りている部屋だった。アメリカ女性の慈芳さんは、航空機ボーイング社の元部長で、現在全ての飛行機に搭載されているブラックボックスを開発したというすごい人だった。松永師が開教師でアメリカにいた時に坐禅に来て、そのまま出家し師僧について日本までやってきた。その空き部屋のドアに、手書きの看板「曹洞宗ボランティア会」を張り付けて事務所としていた。
曹洞宗教団が立ち上げた難民支援団体は2年を待たずに活動の停止を決めた。ボランティアの仲間たちは、そこに難民が居るのにやめるわけにはいかない。教団がやめるならば自分たちだけで活動を引き継げないだろうかと上馬の私のアパートで相談した。有馬実成師とボランティアOB・OGたちが集まって話し合った結果、昭和56(1981)年12月正式に「曹洞宗ボランティア会」の設立を見た。57年(1982)2月、その事務所を五反田に探し、私のアパートにあった電話、机、スタンド、本棚、冷蔵庫など家財道具のほとんどをそこに運んで永平寺に行った。研修所での3年が過ぎ、いよいよ修行に行かなければならないこととなった。それを拒む理由はもうなかった。どうせ行くなら、一番厳しいと言われる永平寺しかないと思っていた。