シャンティボランティア会時代
「21世紀はNGOの時代だ」と話していたシャンティ国際ボランティア会専務理事有馬実成師は、その直前の平成12年(2000)9月18日に遷化された。前年、待望の団体の法人化を成し遂げたばかりだった。「曹洞宗ボランティア会」は改組して「社団法人シャンティ国際ボランティア会」となった。
師は、法人化の祝賀式典終了後真っすぐ病院に向かわれた。病状は芳しくなく、そのまま帰れないのではないかと思われた。主だったメンバーは祝賀会どころではなく、懇親会の途中で会場を抜け出して対策を考えた。有馬さんの代わりができる人などいるはずがなく、かといって誰かがやらなければせっかく法人化を成し遂げたばかりで団体は崩壊してしまうかもしれない。混沌とした中で一人が「三部、お前がやれ」と言い放った。それにつられて「そうだ、それしかない」とみんなが声をそろえた。「ちょっと待ってくださいよ。できるわけないじゃないですか」と反論するも、「あんたがやると言わなければ、誰かが手を挙げてとんでもない方向に行ってしまう、やるしかない」と責め立てられた。
有馬さんは、当会の指導者であるばかりでなく、もう既に日本のNGO界のリーダーであると衆目が認めていた。その後任を務めるというのは、何も準備していないのにいきなり満場の大舞台に立たせられるようなもので、自分の力不足からいって、とても任に堪えられるものではなかった。しかし、それに対抗できる方策を持ち合わせているわけではなく、結局押し切られて大役を受けることになってしまった。
平成12年(2000)の総会において、正式に専務理事に就任した。専務理事は常勤となるので、永平寺役寮以来の単身赴任となり、特派布教師も退任させていただいた。
永平寺の勤めを終えてから特派布教師を務めていたが、同時にシャンティの東京事務所を手伝ってほしいという要請で時々顔を出していた。有馬さんのサポートという役割だったが、それさえも役に立っていたかどうか疑わしい。それなのに、団体の方針決定、業務の執行責任、人事の掌握、事務局の統括、他団体との交渉等々、専務理事の責任は重く、いくら当て馬だったとしても、振り返ってあまりにお粗末だったと汗顔の至りで慚愧に堪えない。
父親は平成8年(1996)頃から体調に異変を感じ始め、方々の医療機関を渡り歩いていた。手が震えたり、上手く字が書けなかったり、言葉が出なくなったりという症状が出ていた。「疲れたのだろう」「軽い脳梗塞ではないか」などの診断で薬を処方され、ぼんやりした状態が続いていた。後にパーキンソン症候群と診断された。お経も途中で出てこなくなり、葬儀や法事に高校生の私の息子を手伝わせたりしていた。それを知りながらも専務理事の業務は席を空けられなかった。
ある時、寺に帰った私をつかまえて父親が声を振り絞った「もう限界なんだ」。目には涙が浮かんでいた。私の大変さも理解して何とか頑張ってはいるが、これ以上は無理だという訴えだった。その状態は檀家にも知れ渡って心配の声が上がり、平成15年(2003)に開催された役員会で、「どうするつもりだ、いつまでもボランティアではないだろう」と迫られた。平成18年(2006)に住職交代の晋山式を行う予定を示し、何とか切り抜けた。
後任の専務理事候補は目星がついていたが、その人の都合もあって、ギリギリの綱渡りをしているような状態だった。何とか交代できる目途がつき松林寺に帰ったのは平成17年(2005)の5月だった。
この5年間は私にとって最も忙しい時代だったと思う。シャンティの常勤をしながら、宿用院の住職、そして父親に代わって松林寺の務めを果たさなければならなかった。忙しさにあこがれていたが忙し過ぎることも悩みだった。
ボランティア会初代会長であり、永平寺役寮時代にも国際部長として大変お世話になった松永然道師が平成19年(2007)2月24日遷化された。温かい慈悲の衣で包むような父とも慕う存在だった。ボランティア会はどうしても有馬師が表に出るが、松永師がいなかったらここまで続かなかったろう。それは当時のボランティアたちが等しく口を揃えるところだ。静岡とはいえ、2月に寒桜が咲く境内の本堂で本葬の通夜説教をさせていただいた。大きな存在をまた一人失った。
もう一人、五反田事務所の時代に入職した沢田隆史君は、下半身に障害があり主に事務所の総務を担ってくれていたが、平成20年11月20日47歳で亡くなった。団体の財政が厳しいと感じ自分の給料の一部を誰にも言わずに団体に寄付していた。生活を切り詰めていた困難が積み重なり、一人の部屋で倒れていた。そういう状況を見過ごしていたことに愕然とし自分を責めた。痛恨の極みだった。
「21世紀はNGOの時代だ」と話していたシャンティ国際ボランティア会専務理事有馬実成師は、その直前の平成12年(2000)9月18日に遷化された。前年、待望の団体の法人化を成し遂げたばかりだった。「曹洞宗ボランティア会」は改組して「社団法人シャンティ国際ボランティア会」となった。
師は、法人化の祝賀式典終了後真っすぐ病院に向かわれた。病状は芳しくなく、そのまま帰れないのではないかと思われた。主だったメンバーは祝賀会どころではなく、懇親会の途中で会場を抜け出して対策を考えた。有馬さんの代わりができる人などいるはずがなく、かといって誰かがやらなければせっかく法人化を成し遂げたばかりで団体は崩壊してしまうかもしれない。混沌とした中で一人が「三部、お前がやれ」と言い放った。それにつられて「そうだ、それしかない」とみんなが声をそろえた。「ちょっと待ってくださいよ。できるわけないじゃないですか」と反論するも、「あんたがやると言わなければ、誰かが手を挙げてとんでもない方向に行ってしまう、やるしかない」と責め立てられた。
有馬さんは、当会の指導者であるばかりでなく、もう既に日本のNGO界のリーダーであると衆目が認めていた。その後任を務めるというのは、何も準備していないのにいきなり満場の大舞台に立たせられるようなもので、自分の力不足からいって、とても任に堪えられるものではなかった。しかし、それに対抗できる方策を持ち合わせているわけではなく、結局押し切られて大役を受けることになってしまった。
平成12年(2000)の総会において、正式に専務理事に就任した。専務理事は常勤となるので、永平寺役寮以来の単身赴任となり、特派布教師も退任させていただいた。
永平寺の勤めを終えてから特派布教師を務めていたが、同時にシャンティの東京事務所を手伝ってほしいという要請で時々顔を出していた。有馬さんのサポートという役割だったが、それさえも役に立っていたかどうか疑わしい。それなのに、団体の方針決定、業務の執行責任、人事の掌握、事務局の統括、他団体との交渉等々、専務理事の責任は重く、いくら当て馬だったとしても、振り返ってあまりにお粗末だったと汗顔の至りで慚愧に堪えない。
父親は平成8年(1996)頃から体調に異変を感じ始め、方々の医療機関を渡り歩いていた。手が震えたり、上手く字が書けなかったり、言葉が出なくなったりという症状が出ていた。「疲れたのだろう」「軽い脳梗塞ではないか」などの診断で薬を処方され、ぼんやりした状態が続いていた。後にパーキンソン症候群と診断された。お経も途中で出てこなくなり、葬儀や法事に高校生の私の息子を手伝わせたりしていた。それを知りながらも専務理事の業務は席を空けられなかった。
ある時、寺に帰った私をつかまえて父親が声を振り絞った「もう限界なんだ」。目には涙が浮かんでいた。私の大変さも理解して何とか頑張ってはいるが、これ以上は無理だという訴えだった。その状態は檀家にも知れ渡って心配の声が上がり、平成15年(2003)に開催された役員会で、「どうするつもりだ、いつまでもボランティアではないだろう」と迫られた。平成18年(2006)に住職交代の晋山式を行う予定を示し、何とか切り抜けた。
後任の専務理事候補は目星がついていたが、その人の都合もあって、ギリギリの綱渡りをしているような状態だった。何とか交代できる目途がつき松林寺に帰ったのは平成17年(2005)の5月だった。
この5年間は私にとって最も忙しい時代だったと思う。シャンティの常勤をしながら、宿用院の住職、そして父親に代わって松林寺の務めを果たさなければならなかった。忙しさにあこがれていたが忙し過ぎることも悩みだった。
ボランティア会初代会長であり、永平寺役寮時代にも国際部長として大変お世話になった松永然道師が平成19年(2007)2月24日遷化された。温かい慈悲の衣で包むような父とも慕う存在だった。ボランティア会はどうしても有馬師が表に出るが、松永師がいなかったらここまで続かなかったろう。それは当時のボランティアたちが等しく口を揃えるところだ。静岡とはいえ、2月に寒桜が咲く境内の本堂で本葬の通夜説教をさせていただいた。大きな存在をまた一人失った。
もう一人、五反田事務所の時代に入職した沢田隆史君は、下半身に障害があり主に事務所の総務を担ってくれていたが、平成20年11月20日47歳で亡くなった。団体の財政が厳しいと感じ自分の給料の一部を誰にも言わずに団体に寄付していた。生活を切り詰めていた困難が積み重なり、一人の部屋で倒れていた。そういう状況を見過ごしていたことに愕然とし自分を責めた。痛恨の極みだった。