なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その14

2021年04月14日 05時00分00秒 | 義道
松林寺時代

平成17年(2005)に松林寺に戻り、すぐに晋山式の準備に取り掛かった。松林寺の住職になるということは、宿用院を離れなければならないということで、それを檀家に納得してもらうためには後継者を決めなければならなかった。檀家からは「住職が松林寺に帰るのははじめから分かっていることなので仕方ないが、息子は置いて行ってくれ」と言われていた。檀家を納得させるにはそれしかないだろうと思っていた。そこで息子の成長を待っていたのだがモタモタして思うように進まなかった。18年(2006)に松林寺晋山式を決め、後は息子に住職を渡せるまで宿用院を兼務する以外になかった。
晋山式と同時に松林寺集中講座の準備も進めた。この寺をどのように使っていくつもりかを実践で意思表示したいと思った。宿用院で地蔵まつりや色んな行事をやってきたことが参考になり、またやれるという自信もあった。本番をシュミレーションして準備を整えるのがとても好きで、1年間は晋山式と集中講座の準備に没頭して楽しい時間を過ごした。
平成18年9月17・18日、松林寺17世住職退董式、18世住職晋山式並びに再会結制を挙行した。寺院総勢115名の大法要となった。父親の退董式も、身体を支えて何とか務めることができた。本堂を引くときには檀家が涙を流して合掌してくれた。体の状態とタイミングがギリギリ何とか間に合ったと安堵した。
晋山式から1か月後の10月16日から22日、1週間の日程で第1回松林寺集中講座を開催した。宿泊参加も受け入れて、朝晩の坐禅と法話、外来講師が6名という膨大な内容だった。2回目からは1泊2日の日程で開催、9回目からは1日だけの日程となった。これも「10年やれば伝統になる」の言葉通り、15回を数えてすっかり定着してきた。集中講座をここまでやって来て一番良かったと思うのは、スタッフの人たちが寺の中を自由自在に楽しそうに動いてくれることだ。寺というところに初めて入ったという若い女性もいて、寺の敷居を下げることができたことは大きな成果だと思う。

平成21年(2009)11月6日、父親が遷化した。満80歳だった。平成8年(1996)頃から体調がおかしいと言っていた。筆で字が書けないと悩んでいて、その後言葉が出にくくなり、足の動きもおぼつかなくなった。言葉は出なかったが意識ははっきりしていて、そのために自分で自分が歯がゆかっただろうと思う。集中講座にも聴衆として着席し笑顔を見せていた。しかし、次第に症状は重くなり、介護、入院、老健施設、寝たきりへと移っていった。
わずかばかりだったが、松林寺で介護した期間があった。母親と交代で父の隣で寝た。布団をはぐ音がしてトイレかなと抱き起し、トイレまで連れて行って下着を下ろして座らせて、頃合いを見て抱き上げてベッドまで連れてきて寝かせてと、それが一晩に5回も6回もとなると次第にイライラしてくる。しかもトイレに座っても少しも音がしないのに立ち上がろうとしたりすると「出たくなけりゃ寝てればいいだろう!」と怒声を浴びせたこともあった。実は疥癬という皮膚病に罹っていて、身体がかゆいので寝ていられなかったのだ。それが言葉で伝えられなかったのだと後から分かった。
それでも、敵と思っていた父親を介護することになって、その体に触れて、風呂で体を洗ったり、お尻を拭いたりした。そんなことができる自分を意外に思った。せざるを得なくてするのだが、その機会を与えてくれたのは父だった。
もし父親が病気にならず、元気なまま突然ポックリ逝ってしまったら、おそらく何年か後にきっと後悔していたことだろう。宿命のように反抗し、口も利かずに別れてしまったら「これでよかったのか」と自分を責めていたに違いない。わずかでも介護のまねごとをして親孝行とまではいかないまでも少しは世話をさせてもらった。そのお陰で後悔の念が軽くなっていることは事実だ。もしかしたら、父は息子のために病気になってくれたのではなかったか、とさえ思う。

亡くなる前の年、9月20日の誕生日に数え80歳の傘寿の祝いとして、孫たちも集まって記念写真を撮った。車椅子で施設からの一時帰宅だったのだが本人はようやく帰って来られたと喜んでいたのだろう。みんなで楽しく過ごした後、車に乗せて施設に戻る時には抗議の声を発した。しかしすぐに諦めたようだった。老人介護は残酷だと感じた。
その後病院と施設の入退院を繰り返し、反応もなく寝ているだけの状態になった。そして、鼻からの栄養補給が喉に詰まり誰もいない病室で息を引き取った。
本葬は初七日に行った。それが父の希望だった。ずいぶん前から自分の葬儀の配役を書き残していたし、頂相の掛軸も準備していた。私もいつかその日は来ると感じていたので、日付だけを空欄にして準備を進めていた。お陰で何とか父の望みを叶えることができたと思う。本葬には多くの参列をいただき、住職54年の慰労と感謝の気持ちで送ることができた。

大学のために上京するとき、都会へのあこがれと父親からの解放と共に、故郷からの解放感も感じていた。田舎特有の相互監視のような閉塞感を息苦しく思っていた。誰も自分を知らない世界はキラキラとした明るい未来を想像させた。監視のない生活は確かに楽しかった。しかし、親につながる故郷は凧の糸を切り離しはしなかった。凧の糸の範囲で遊んでいたにすぎない。しがらみのない解放は解放と言えるのだろうか。糸の切れた凧は解放とも自由とも違うように思う。
30年ぶりに腰を落ち着けた故郷最上。しがらみではあるけれど、それを消極的な決断にはしたくなかった。どんな理由にせよ、ここで生きていくと決めたならば、ここでよかったと思える生き方をしなければ損だと思った。嫌々生きる人生よりも、ここでいいと思える人生を生きたいと思う。つまらない点があれば自らが変えていく、あるいは作っていけばいい。死ぬときに「楽しかった」と言えるために、ここで精いっぱい積極的に生きてみようと思った。
「もがみ地産地消エネルギー」では地域新電力立ち上げに向けて勉強会を行っている。「最上の地酒を創る会」では最上町産の米と水で新しい地酒を創ることになった。「花の鶴楯を創る会」は地元下小路・立小路の起源である鶴楯を花の山として整備しなおすための事業を始めた。
常に、もっといい方法はないか、もっと楽しむ方法はないかと考えている。