なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その15

2021年04月21日 05時00分00秒 | 義道
東日本大震災

私が生きた時代の社会的に大きな出来事は、東京オリンピックや大阪万博、阪神淡路大震災などが挙げられる。しかし、その規模と衝撃から言って、平成23年(2011)3月11日発災の東日本大震災が、私にとって最も大きな出来事だったのは間違いない。
津波は画面で映像を見るだけでも魂が凍るような怖さを感じたが、実際にその場にいて、あるいは飲み込まれてしまった人の恐怖は、体験者以外の人間にはとてもとても分かり得ない。さらには原発事故の惨劇はこの国がかつて経験したことのない重大事故だった。
4日後の3月15日に被災地に入り、真っ先に知り合いの気仙沼市清凉院さんに向かった。以来、岩手から福島まで、右往左往しながらできることを考えてきた。その中で大きかったのは、「まけないタオル」プロジェクトと「漁師のハンモック」だ。
避難所を回りながら感じたどんよりとした暗さ。家も家族も仕事も財産も全て持って行かれた人々が暗くなるのは当然だが、暗いままでいるとますます落ち込んで立ち上がれなくなってしまうのではないか、何か元気になる方法はないかと考えていた。被災地から山形へ戻る車を運転しながら、「みなさん負けないで」という思いと、頭に「巻いていたタオル」が結びついて『まけないタオル』というフレーズが頭の中で鳴り響いた。4月3日のことだ。
頭にも首にも巻けない短いタオルで元気づけることはできないか。人はおかしいから笑うだけでなく、笑うことで明るくなり元気になることもあるはずだ。「なんだダジャレか」とクスッとしてくれればいい。その思いつきをブログに書いた。そして誰かタオル業者を知らないかと呼びかけた。すると真っ先に連絡をくれたのが、シンガーソングライターで歌う尼さんのやなせななさんだった。「親戚にタオル業者がいる、紹介しましょうか」。そこからプロジェクトが動き出した。
被災者の数は50万人、全員に配りたいけどとりあえずは1万枚。製作費用はどうするか、タオルを被災地に届ける活動を支援する募金を呼び掛けて、募金してくれた人にもタオルを一枚さしあげる、被災地の中と外で同じタオルを握ってこの震災に立ち向かう、という構想が固まってきた。
タオルを発注した後、宮城県山元町で寺を流された早坂文明さんからメールが来た。「まけないタオルって何をしたいのかはじめ分からなかったけど、ようやく分かってきた。そういうことなら歌で呼びかけた方が分かりやすいと思って歌詞を書いてみた。庭を掃除しながら30分でできた。誰かに曲を付けてもらって」。タオル発想から1か月後の5月3日だった。
作曲といえばシンガーソングライターのやなせさんだろうと、その日の内に依頼した。「私時間がかかるんですよね。長いときは2・3か月」。それなら無理か。他に誰かと思っていた次の日の朝「曲できました。私が書かなければ誰かが書くでしょう。それは嫌だと思って一晩かかって書きました、聴いてください」。電話口で『まけないタオル』が流れた。歌が完成するまで30分と一晩。物語が生まれる時はこういうものかと思った。
それからタオルと歌を持ってやなせさんと被災地を届けて回った。彼女は被災地の外でも歌うたびに「まけないタオル」を呼びかけた。結果として作って配ったタオルの枚数は85,000枚に上り、支援金額は3,700万円に達した。タオルの製作費と経費を除いた資金は、親を失った震災孤児への支援などに使わせてもらった。

気仙沼にボランティアに来ていたアメリカ人の女性が船を流された漁師の仕事として、網を編む技術を使ってハンモックを作って売ったらどうかという発案をした。それはおもしろいと飛びついたが、なかなかアイデアが動きとして展開しなかった。当時まだ気仙沼は電話も不通でFAXが使えなかった。そこで事務局を引き受け松林寺がFAXの受付となり「漁師のハンモック」と銘打って広報した。テレビやラジオで何度も流れた。結果として一枚10,000円で1,000枚売れた。1,000万円の仕事を作ったことになる。どちらも現場において生まれたアイデアだった。

まけないタオルを始めようとしたとき、中央の人から「冗談言ってる場合じゃないでしょ」と批判を受けた。それは現場を見ないでその空気を感じないでの印象に違いない。冗談を言っているつもりは毛頭なかった。何とかして元気になってもらいたいという現場での歯ぎしりするような直感から生まれたものだった。
震災後真っ先に訪れた清凉院さんは以前からの知り合いだったが、それから数えきれないほど訪ね、抱き合って涙を流し、酒を酌み交わし、兄弟とまで呼ぶようになった。震災がもたらした大きな結縁だった。