三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第392回。11月20日、日曜日。
一昨日の霜で銀杏の葉が、一気に散りました。
まるで黄色い雪が降るようでした。
きれいではあるのですが、いつまでもながめてばかりではいられません。
お寺の銀杏が散ると雪が降る、というのは当地の風説で、間もなく白い物も舞い散ることになるでしょう。
その前に葉の方を始末しておかないと雪の下になり来春が大変になります。
ということで、一昨日はカミさんと二人で一気に片づけました。
その後間もなく雨が降り出したので、ギリギリのタイミングでした。
樹木は二酸化炭素を吸い、酸素を吐くと言われます。
正確には、植物も動物と同じく呼吸により酸素を吸い二酸化炭素を吐き出しているのですが、昼間は光合成によって炭素を取り込むために二酸化炭素を吸い込み、不必要な酸素を吐き出している、ということのようです。
原始の地球は今よりずっと二酸化炭素の濃度が高く、動物が生きられる環境ではありませんでした。
植物が発生し繁茂していく過程で、二酸化炭素が樹木に固定化され、さらに地下に埋没して、酸素濃度が高くなって動物が生活できるような環境になりました。
地球の地上にある炭素は総量一定量で、植物と動物がそれをやりとりして生きてきたのです。
今問題になっている温暖化効果ガスは、地下に眠っていた石炭や石油という炭素を地上に掘り出して燃やすことで発生する二酸化炭素を指します。せっかく寝ていた子を起こして、原始の地球のような環境になりつつあるのです。
ただ、樹木などの植物も、成長する際に二酸化炭素を吸いますが、成長が止まるとその作用も止まり、枯れていくときにはため込んだ二酸化炭素を吐き出していきます。
つまり、1本の樹木が生涯で吸って吐く二酸化炭素の量はプラスマイナス0なのです。
そこで、樹木が排出する二酸化炭素を、ただ朽ちるままに排出させるのではなく、暖房などに活用して排出させていこうというのが温暖化防止対策の木材の利用、バイオマス・エネルギーという方策です。
地上の炭素を燃やすことで二酸化炭素の量が増えることはないのです。
樹木が、生きている間酸素を吐き出し続けているから我々は生きていけます。
動物が二酸化炭素を吐き出しているから樹木は生きていけます。
自らの身体から排出するものによって互いに他を生かしているのです。
命というのはそういう仕組みで作られているものと思います。
人間が亡くなる時、「息を引き取る」と言います。
身体は最期まで生きようとしている、と見ることもできますし、息を吐けなくなったら死ぬのだ、と見ることもできるかもしれません。
もしかしたら、吸うよりも吐くことの方が体力を必要とするということなのでしょうか。詳しくは分かりません。
ただ、人間も、植物と動物の相関関係の枠組みの中に存在するのであれば、人間だって、他の命のために何かを吐き出さなければ生きてはいけないことなのではないだろうか。
生きるということは吐き出していくこと。他の命のために施しをしていくこと。それが生きる意味としてプログラミングされているのではないか、と思うところです。
呼吸もその通りであると思いますが、裸で生まれてきた人間が、生まれると同時にいろんなモノを与えられ、手にして大きくなっていきます。
どれほどの数のモノ、どれほど高価なモノを手に入れたとしても、死んでいくときにはやはり、素っ裸で死んでいくしかありません。
肉体すら消滅し、残るのは骨だけです。
だとするならば、樹木のカーボンニュートラルのように、我々も、手にしたモノを誰かのために排出していくべきではないのか。いやむしろ、排出することがたくさんのモノを手にしてきた意味ではないのか。それが生きるということではないのか。と思います。
生きている間に吐き出していくこともできるし、遺贈という形で、自分が亡くなった時に、自分のモノを必要とする人のために使ってもらうことを約束していく、という方法もあります。
裸で生まれて裸で死んでいく。生きている間に手にしたモノは全て、最も有効に使われるもののために排出する。
そう思って死ねるならば、生きてきた甲斐があるというものではないですか。
良からぬことで手にしたモノでも、自分の意思で役立つことに使うことができます。
大事なのは収入の仕方よりも支出のあり様です。お金の使い方で人間が分かります。
息を吐くように、排出していきましょう。
それが生きるということなのですから。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
一昨日の霜で銀杏の葉が、一気に散りました。
まるで黄色い雪が降るようでした。
きれいではあるのですが、いつまでもながめてばかりではいられません。
お寺の銀杏が散ると雪が降る、というのは当地の風説で、間もなく白い物も舞い散ることになるでしょう。
その前に葉の方を始末しておかないと雪の下になり来春が大変になります。
ということで、一昨日はカミさんと二人で一気に片づけました。
その後間もなく雨が降り出したので、ギリギリのタイミングでした。
樹木は二酸化炭素を吸い、酸素を吐くと言われます。
正確には、植物も動物と同じく呼吸により酸素を吸い二酸化炭素を吐き出しているのですが、昼間は光合成によって炭素を取り込むために二酸化炭素を吸い込み、不必要な酸素を吐き出している、ということのようです。
原始の地球は今よりずっと二酸化炭素の濃度が高く、動物が生きられる環境ではありませんでした。
植物が発生し繁茂していく過程で、二酸化炭素が樹木に固定化され、さらに地下に埋没して、酸素濃度が高くなって動物が生活できるような環境になりました。
地球の地上にある炭素は総量一定量で、植物と動物がそれをやりとりして生きてきたのです。
今問題になっている温暖化効果ガスは、地下に眠っていた石炭や石油という炭素を地上に掘り出して燃やすことで発生する二酸化炭素を指します。せっかく寝ていた子を起こして、原始の地球のような環境になりつつあるのです。
ただ、樹木などの植物も、成長する際に二酸化炭素を吸いますが、成長が止まるとその作用も止まり、枯れていくときにはため込んだ二酸化炭素を吐き出していきます。
つまり、1本の樹木が生涯で吸って吐く二酸化炭素の量はプラスマイナス0なのです。
そこで、樹木が排出する二酸化炭素を、ただ朽ちるままに排出させるのではなく、暖房などに活用して排出させていこうというのが温暖化防止対策の木材の利用、バイオマス・エネルギーという方策です。
地上の炭素を燃やすことで二酸化炭素の量が増えることはないのです。
樹木が、生きている間酸素を吐き出し続けているから我々は生きていけます。
動物が二酸化炭素を吐き出しているから樹木は生きていけます。
自らの身体から排出するものによって互いに他を生かしているのです。
命というのはそういう仕組みで作られているものと思います。
人間が亡くなる時、「息を引き取る」と言います。
身体は最期まで生きようとしている、と見ることもできますし、息を吐けなくなったら死ぬのだ、と見ることもできるかもしれません。
もしかしたら、吸うよりも吐くことの方が体力を必要とするということなのでしょうか。詳しくは分かりません。
ただ、人間も、植物と動物の相関関係の枠組みの中に存在するのであれば、人間だって、他の命のために何かを吐き出さなければ生きてはいけないことなのではないだろうか。
生きるということは吐き出していくこと。他の命のために施しをしていくこと。それが生きる意味としてプログラミングされているのではないか、と思うところです。
呼吸もその通りであると思いますが、裸で生まれてきた人間が、生まれると同時にいろんなモノを与えられ、手にして大きくなっていきます。
どれほどの数のモノ、どれほど高価なモノを手に入れたとしても、死んでいくときにはやはり、素っ裸で死んでいくしかありません。
肉体すら消滅し、残るのは骨だけです。
だとするならば、樹木のカーボンニュートラルのように、我々も、手にしたモノを誰かのために排出していくべきではないのか。いやむしろ、排出することがたくさんのモノを手にしてきた意味ではないのか。それが生きるということではないのか。と思います。
生きている間に吐き出していくこともできるし、遺贈という形で、自分が亡くなった時に、自分のモノを必要とする人のために使ってもらうことを約束していく、という方法もあります。
裸で生まれて裸で死んでいく。生きている間に手にしたモノは全て、最も有効に使われるもののために排出する。
そう思って死ねるならば、生きてきた甲斐があるというものではないですか。
良からぬことで手にしたモノでも、自分の意思で役立つことに使うことができます。
大事なのは収入の仕方よりも支出のあり様です。お金の使い方で人間が分かります。
息を吐くように、排出していきましょう。
それが生きるということなのですから。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。