三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第355回。3月6日、日曜日。
まだ、ロシアによるウクライナ攻撃は収まっていません。
隣の家に土足で入って暴れまわっているのです。
踏み込まれた家の人は「誰か止めてくれ」と願って助けを呼びかけているのですが、なかなか手が出せないようです。
警察ともいうべき国連も、言葉で制止するばかりで実際に手を下すことはできません。
どこまで持ちこたえることができるのか、相手国への兵糧攻めとの時間の勝負のような様相です。
ロシアがウクライナへ侵攻した理由はNATOの東方拡大の阻止だったと思いますが、侵攻の後、ウクライナやモルドバ、ジョージアも急遽加盟申請を行うなど、結果的に逆効果となりました。
そんな中、日本の政治家がおかしなことを言い始めました。
「ウクライナに核がないから攻められた。国を守るために我が国も核を共有しなければならない」というような主旨です。
「そうだそうだ」と同調する政治家もいるようです。
何を考えているのでしょうか。
核を持てば他国が攻めてこなくなるという論理でしょうか。
そのように力によって力を制すという考えは北朝鮮と同じで、いわば「虎の威を借るキツネ」のように、核をチラつかせて言い分を通そうという考えで、それは平和でも何でもありません。
それとも、国民の貧困を隠して軍備増強に走る彼の国を平和国家?として参考にするのでしょうか。
隣が武器を持てばこちらも同じだけの武器を持ちたくなる、それがエスカレートして核の数で対峙していたのが冷戦時代でしょう。
その時代を超えて、話し合い、すなわち外交で戦争を回避してきた人間的な努力を、元の木阿弥に帰すような論理と発言は、この時代においてバカげているとしか思えません。
ここは唯一の被爆国、日本です。「過ちを繰り返しません」と誓った国民です。
被爆した人々もいる前で、核を保有するなどという発想が出てくること自体が考えられません。
逆に、この国がなぜ世界の核廃絶への先導国となれないのか。不思議でなりません。
更には、原発事故で図らずも同じ原子力の怖さを知ったばかりの国です。その痛みを無視するのか。バカバカしいにもほどがあります。
尖閣諸島への中国軍機の飛来やロシア機の北海道飛来の報道を受けて「ほら来た」としたり顔で言ったりする政治家は、心のどこかでそれを望んでいたのでしょうか。
ウクライナへの義勇兵の希望者が殺到したという報道もありました。
義憤に燃えるという気持ちは分からないでもありません。ふつふつと湧いてくる怒りと恐怖に怯える人を助けたいという熱き思いは私にも確かにあります。
ましてや、そのような技術のある人には「現場」へのあこがれもあることでしょう。
実際に機関銃や戦車砲を撃ってみたい、実践で戦ってみたいとワクワクしているでしょうか、もしかしたら人を撃ってみたいという思いもあるかもしれません。
しかし、冷静になりましょう。
敵と見做す相手には、嫌々戦っている兵士もいるはずです。その安否を心配して帰りを待つ家族もいて、家族の元へ帰りたいと願いながら死んでいく兵士もいるでしょう。
戦争はゲームではありません。殺人です。
正当な理由のある殺人などありません。
領土が欲しい、元々は我々のものだった、そんな理由で殺人が正当化されるわけはありません。
野生動物であれば戦ってテリトリーを守る、広げるという行為は自然だと言えます。
しかし、人間は野生動物ですか?
言葉を持ち、智慧があり、他の痛みを感じる慈悲心があります。
鎖国でもしない限り、他国と共に生きていく以外の選択肢はありません。
主張の違いは武力ではなく話し合いによって解決していく、それがグローバル社会の条件です。
世界大戦後の外交努力による平和の流れを台無しにする今回の行為は、未来に禍根を残す大きな汚点となるでしょう。
そういう視点で観れば、安全のためにもっと強力な武器を持つべきだという論理は、武力侵攻の意図と通底する時代錯誤の論理だと言わなければなりません。
互いに違いを認め合い、多様性をモザイクのような美しさと受け止める人間関係、社会こそが、未来に平和をもたらす唯一の捉え方だと考えます。「理想論だ」と笑いたければ笑えばいい。
理想を目指して現実を変えていくのか、現実を見て理想を見失うのかの選択です。
みんな、もう少し利口になろうよ。
命は全てつながっていて、相手の幸せなくして自分の幸せなどないのです。
相手を傷つけ、不幸にして自分が幸せになれるわけがないのです。
ウクライナの国旗は、青い空と黄色い麦畑を表していると知りました。
この国に、青い空の下穀物を収穫する、穏やかで笑顔に満ちた生活が戻ることを心より祈ります。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
まだ、ロシアによるウクライナ攻撃は収まっていません。
隣の家に土足で入って暴れまわっているのです。
踏み込まれた家の人は「誰か止めてくれ」と願って助けを呼びかけているのですが、なかなか手が出せないようです。
警察ともいうべき国連も、言葉で制止するばかりで実際に手を下すことはできません。
どこまで持ちこたえることができるのか、相手国への兵糧攻めとの時間の勝負のような様相です。
ロシアがウクライナへ侵攻した理由はNATOの東方拡大の阻止だったと思いますが、侵攻の後、ウクライナやモルドバ、ジョージアも急遽加盟申請を行うなど、結果的に逆効果となりました。
そんな中、日本の政治家がおかしなことを言い始めました。
「ウクライナに核がないから攻められた。国を守るために我が国も核を共有しなければならない」というような主旨です。
「そうだそうだ」と同調する政治家もいるようです。
何を考えているのでしょうか。
核を持てば他国が攻めてこなくなるという論理でしょうか。
そのように力によって力を制すという考えは北朝鮮と同じで、いわば「虎の威を借るキツネ」のように、核をチラつかせて言い分を通そうという考えで、それは平和でも何でもありません。
それとも、国民の貧困を隠して軍備増強に走る彼の国を平和国家?として参考にするのでしょうか。
隣が武器を持てばこちらも同じだけの武器を持ちたくなる、それがエスカレートして核の数で対峙していたのが冷戦時代でしょう。
その時代を超えて、話し合い、すなわち外交で戦争を回避してきた人間的な努力を、元の木阿弥に帰すような論理と発言は、この時代においてバカげているとしか思えません。
ここは唯一の被爆国、日本です。「過ちを繰り返しません」と誓った国民です。
被爆した人々もいる前で、核を保有するなどという発想が出てくること自体が考えられません。
逆に、この国がなぜ世界の核廃絶への先導国となれないのか。不思議でなりません。
更には、原発事故で図らずも同じ原子力の怖さを知ったばかりの国です。その痛みを無視するのか。バカバカしいにもほどがあります。
尖閣諸島への中国軍機の飛来やロシア機の北海道飛来の報道を受けて「ほら来た」としたり顔で言ったりする政治家は、心のどこかでそれを望んでいたのでしょうか。
ウクライナへの義勇兵の希望者が殺到したという報道もありました。
義憤に燃えるという気持ちは分からないでもありません。ふつふつと湧いてくる怒りと恐怖に怯える人を助けたいという熱き思いは私にも確かにあります。
ましてや、そのような技術のある人には「現場」へのあこがれもあることでしょう。
実際に機関銃や戦車砲を撃ってみたい、実践で戦ってみたいとワクワクしているでしょうか、もしかしたら人を撃ってみたいという思いもあるかもしれません。
しかし、冷静になりましょう。
敵と見做す相手には、嫌々戦っている兵士もいるはずです。その安否を心配して帰りを待つ家族もいて、家族の元へ帰りたいと願いながら死んでいく兵士もいるでしょう。
戦争はゲームではありません。殺人です。
正当な理由のある殺人などありません。
領土が欲しい、元々は我々のものだった、そんな理由で殺人が正当化されるわけはありません。
野生動物であれば戦ってテリトリーを守る、広げるという行為は自然だと言えます。
しかし、人間は野生動物ですか?
言葉を持ち、智慧があり、他の痛みを感じる慈悲心があります。
鎖国でもしない限り、他国と共に生きていく以外の選択肢はありません。
主張の違いは武力ではなく話し合いによって解決していく、それがグローバル社会の条件です。
世界大戦後の外交努力による平和の流れを台無しにする今回の行為は、未来に禍根を残す大きな汚点となるでしょう。
そういう視点で観れば、安全のためにもっと強力な武器を持つべきだという論理は、武力侵攻の意図と通底する時代錯誤の論理だと言わなければなりません。
互いに違いを認め合い、多様性をモザイクのような美しさと受け止める人間関係、社会こそが、未来に平和をもたらす唯一の捉え方だと考えます。「理想論だ」と笑いたければ笑えばいい。
理想を目指して現実を変えていくのか、現実を見て理想を見失うのかの選択です。
みんな、もう少し利口になろうよ。
命は全てつながっていて、相手の幸せなくして自分の幸せなどないのです。
相手を傷つけ、不幸にして自分が幸せになれるわけがないのです。
ウクライナの国旗は、青い空と黄色い麦畑を表していると知りました。
この国に、青い空の下穀物を収穫する、穏やかで笑顔に満ちた生活が戻ることを心より祈ります。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
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