Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

土門拳の写真②

2010年04月26日 08時01分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 いただいた土門拳の絵葉書となっている写真作品から2点を追加してみた。

  葦と船の写真は「舟・島根宍道湖」と題されている。モノクロームの写真では、良く写される題材の写真だ。私もモノクロームの写真を市民講座で習い、しばらくその先生の主宰するグループで勉強したとき横浜の三渓園で係留されている舟と葦を題材に撮影してみた。ただし小さな池のためこのような大きな景色ではなかったが‥。水墨画のような情景を求めて幾度かトライしたがうまくはいかなかった。
 このような大きな景色で、しかもカラーで、水平線と空がかすかな色の変化でわかれ、空と水に溶け込みそうな遠景の舟の写真はどのように撮るのだろう。焦点のあってといる葦は水面に克明に写っているが、舟と釣り人の影は微かに写っているのみ。焦点は葦にあっているのだが、この舟と釣り人が主題となるというのは写真ならではの効果・構図のような気がする。
 私が感心するのは一番手前の黒い杭の存在だ。普通ならこれを写しこまないようにカメラの位置を変えるなどの工夫をするのだろうが、私にはこの黒い杭がポイントのように思える。これが無いと通俗的な水墨画をまねた写真になるだけではないだろうか。
 一番手前の杭と、頭だけ出している杭を通って緩やかな曲線を描きながら無理なく舟にいたる視線ができる。これがなくて葦と舟だけだとこの二つを結びつける視線の誘導がなくなり、別のものが画面に並べられるだけになってしまう。この二つの黒い杭によって波紋が生きてくる。そして葦と舟を無理なく関連付ける波が際立ってくるように感じる。

  二点目は「椿寺の五色八重椿根元・京都地蔵院」と題されている。椿の古木と散った椿、落ちた椿のならびに、はじめは作為を感じた。しかし見続けていると、落ちた椿が無いと老人の皺のような椿の古木の襞が緑のグラデーションの中にかすんでしまう。苔の質感と古木の質感の差を際立たせているのがこの明るい色の落ち椿だと得心する。右に伸びるねじれた枝の流れと落ち椿の右への並び方はこの椿の枝の大きさを十分に暗示してくれる。
 さらによく目を凝らすと苔の絨毯は根にそって波打っている。幹の皺と呼応するように。これも落ち椿によって際立つような仕掛けに見える。
 いづれにしろずいぶんと凝った視点と意図を感ずる。

 友人にもらった絵葉書をながめながら、いろいろと空想ができる写真作家であることをあらためて感じた。

 なお、酒田市の土門拳記念館に行っていない、と記載した。しかし妻の記憶では6年前の夏に鳥海山に登る前日に訪れている、とのこと。日記帳を見せられた。浅い池に囲まれた四角い建物が印象的だったとのこと。私はまったく記憶に無いし、展示内容も記憶に無いという情けない話だが、この場で訂正することにした。確かに訪れていたことは間違いがない。