恥ずかしながら約一年かけて本日読了。途中約9ヶ月ほど放ってあった。というよりも机のうずたかく積まれた本の下のほうに忘れてあった。
「大震災の中では一種の連帯感、共同体感情というものが存在した。普段の人々の境界が溶け落ちた(メルトダウンした)のである。それはボランティアが、魚が水の中に泳ぐように動ける世界であった。これをボランティアに関して『熱い』(ホッとな)世界と言おう。この世界にも危険性は潜んでいる。私は震災直後の熱い世界の中で、フランス革命にせよ、ロシア革命にせよ、革命の初期の高揚はこういうものだったのではないかと思った。この共同体感情を永遠なら占めようという誘惑は回りまわって「力づくの永遠化」すなわち恐怖政治につながりかねない、という思いも頭をかすめた。しかし幸いに、被災地のだれもがこれが一時的であることを直感していた。そして天災は革命よりも人を排他的にしにくい」
「母子の時間の底には無時間的なものがある。母の背に負われ、あるいは懐に抱かれたならば、時間はもはや問題ではなくなる。父子にはそれはない。父親と過ごす時間には過ぎ行くものの影がある。‥終わりの予感が、楽しい時間の終末部を濃く彩る。」「友人と過ごす時間は、合うまでの待つ楽しさと、会っている最中の終わる予感とがある。別れの一瞬には、人生の歯車が一つ、コトリと回った感じがする。人生の呼び戻せないさをしみじみと感じる。」
「(阪神間・夙川のあたりは)電車の窓をすとんと落としてふんだんに風をいれる五月初めならば、‥松の樹脂の香りと花のにおいと風化花崗岩の湿り気と微かな海の塩とを交えた爽やかな風がどっと車内に満ちた。その風は老木が削りたての杉板そのままのきつい香りを放つ間を太平洋からの強い風がふんだんに吹きすぎる鎌倉の風でもなく、高燥な大気が落葉松のしめった匂いをひきしめている軽井沢の風でもなかった。‥いつも洗い立てのような風化花崗岩の白い砂が、この風のかおりを守っていた。」
精神科医らしい文章と、文学的な文章を抜き出してみた。
最初の文章は1960年代の群小の政治活動家や、経験したものが未だ抜け切れていない課題である。政治的共同体と大衆構造との関係、大衆運動と政治課題との関係、つまるところ政治に携わるものの「大衆像」が問われているのだが、そこに届いた政治思想はないような気がする。
二番目、私も来年の今頃には定年となる。大学の同窓生は定年を迎えたか、私と同じように迎えようとする歳である。年に一度も会えなくとも、定年を機会に会うことを楽しみにしている面々もある。お互いのどのような家庭像を披露し、どのような友人像を抱えていたか、楽しみとしよう。
三番目、このような美しい文章を書いてみたいものだ。さすがに理系、分析的な文章である。私も理系の文章といわれる。理系という言葉が「美しい文章」とは反しないことを私自身の文章で証明したいものだ。
中井久夫の文章は私にはすっと入ってくる。文章の流れ、語彙の選択、段落の区切り、喚起されるイメージ、いづれも私のものと合致する。単に読みなれたためではなさそうである。
分析的な文章、演繹的な構成、起承転結のわかりよさ、飛躍のない展開と結論、威圧的でない結語、どれをとっても真似をしたくなる文章である。身につけたくなる文章術である。
私は一人の著者に凝るほうである。中井久夫のエッセイ・本は翻訳を除くと「樹をみつめて」「日時計の影」「最終講義」。次は「樹をみつめて」の予定。
「大震災の中では一種の連帯感、共同体感情というものが存在した。普段の人々の境界が溶け落ちた(メルトダウンした)のである。それはボランティアが、魚が水の中に泳ぐように動ける世界であった。これをボランティアに関して『熱い』(ホッとな)世界と言おう。この世界にも危険性は潜んでいる。私は震災直後の熱い世界の中で、フランス革命にせよ、ロシア革命にせよ、革命の初期の高揚はこういうものだったのではないかと思った。この共同体感情を永遠なら占めようという誘惑は回りまわって「力づくの永遠化」すなわち恐怖政治につながりかねない、という思いも頭をかすめた。しかし幸いに、被災地のだれもがこれが一時的であることを直感していた。そして天災は革命よりも人を排他的にしにくい」
「母子の時間の底には無時間的なものがある。母の背に負われ、あるいは懐に抱かれたならば、時間はもはや問題ではなくなる。父子にはそれはない。父親と過ごす時間には過ぎ行くものの影がある。‥終わりの予感が、楽しい時間の終末部を濃く彩る。」「友人と過ごす時間は、合うまでの待つ楽しさと、会っている最中の終わる予感とがある。別れの一瞬には、人生の歯車が一つ、コトリと回った感じがする。人生の呼び戻せないさをしみじみと感じる。」
「(阪神間・夙川のあたりは)電車の窓をすとんと落としてふんだんに風をいれる五月初めならば、‥松の樹脂の香りと花のにおいと風化花崗岩の湿り気と微かな海の塩とを交えた爽やかな風がどっと車内に満ちた。その風は老木が削りたての杉板そのままのきつい香りを放つ間を太平洋からの強い風がふんだんに吹きすぎる鎌倉の風でもなく、高燥な大気が落葉松のしめった匂いをひきしめている軽井沢の風でもなかった。‥いつも洗い立てのような風化花崗岩の白い砂が、この風のかおりを守っていた。」
精神科医らしい文章と、文学的な文章を抜き出してみた。
最初の文章は1960年代の群小の政治活動家や、経験したものが未だ抜け切れていない課題である。政治的共同体と大衆構造との関係、大衆運動と政治課題との関係、つまるところ政治に携わるものの「大衆像」が問われているのだが、そこに届いた政治思想はないような気がする。
二番目、私も来年の今頃には定年となる。大学の同窓生は定年を迎えたか、私と同じように迎えようとする歳である。年に一度も会えなくとも、定年を機会に会うことを楽しみにしている面々もある。お互いのどのような家庭像を披露し、どのような友人像を抱えていたか、楽しみとしよう。
三番目、このような美しい文章を書いてみたいものだ。さすがに理系、分析的な文章である。私も理系の文章といわれる。理系という言葉が「美しい文章」とは反しないことを私自身の文章で証明したいものだ。
中井久夫の文章は私にはすっと入ってくる。文章の流れ、語彙の選択、段落の区切り、喚起されるイメージ、いづれも私のものと合致する。単に読みなれたためではなさそうである。
分析的な文章、演繹的な構成、起承転結のわかりよさ、飛躍のない展開と結論、威圧的でない結語、どれをとっても真似をしたくなる文章である。身につけたくなる文章術である。
私は一人の著者に凝るほうである。中井久夫のエッセイ・本は翻訳を除くと「樹をみつめて」「日時計の影」「最終講義」。次は「樹をみつめて」の予定。