昨日の朝日新聞の夕刊の2面にに高島野十郎の記事が掲載されていた。夜に(その2)の記事を書いているときに妻に教えてもらった。
記者は次のように書いている。「よくよく見ると写実的だが、正確な描写ではない。炎は長すぎるし、影は動かず真円に近い。三鷹市芸術文化振興財団の富田智子主任学芸員は「写真でもこうはならない。時間の厚みがある。描けそうで描けない絵」とみる。揺らぐ炎は何を照らすのか。画家は言葉を残していない。だが、描く姿を想像すれば、照らされるのは絵筆を握った野十郎自身ということになる。遁世し、静かに絵と向き合う画家の気配までが感じ取れる絵だ。」
どうも限られた字数のためもあろうが飛躍が多い。学芸員の言葉も前段の言葉が大いに割愛されていていそうである。炎の揺らぎ様が実際より長く、かつ輝きが実際よりは大きく、それにもかかわらず影に揺らぎがなく、炎の最下部の青も実際の青っぽい色とは違う。蝋も流れ出ておらず、ながらく燃えたらしい大型の蝋燭の揺らぎにしては円対象のまま燃えている。以上実際の蝋燭とは違うところはいっぱいある。しかしこれが絵にどっしりとした安定感・安心感を与えている。
絵である以上そうなのだ。写真ではない。
学芸員が言った言葉は切り貼りだろうから前後・途中が抜けている可能性は大いにあるが、言葉としては悪くない。的確で簡潔なのかもしれない。私なら「時間の厚み」とは云わずに「作者のこうであってほしいという思いによって見えている作者自身の頭の中で再構成され、そして熟成を重ねて作られ、作者にとっての真実の写生」とでもいうことだろう。
記者は安直な「照らし出されているのは作者自身」との結論を掲げておしまいにしているが、これは違っている。描かれているのは学芸員の言葉によれば「作者の時間の厚み」「写実の目」であり、そうなら照らし出されているのは、反射的には「作者の時間の厚み」を通してそれを鑑賞している鑑賞者の心である。
同じ炎でも見る人の心にはさまざまな違う波紋をもたらす。
蝋燭の炎自体は安らぎと安心と心のゆとりをもたらすが、それは空気の流れのわずかな擾乱がもたらす不規則で細かな揺らぎによる炎によってもたらされる微かな不安や心の擾乱と、揺らぎの復元後の安定な炎があるからである。
揺らぎをここまで見せられると或る人は、その擾乱によって大きく心に波風を立てられる場合もあるかもしれない。揺らぎによる不安をまず念頭に覚えるかもしれない。そしてその次に蝋燭の炎をじっと見ているときを思い出し、人類の始原の頃からの歴史を持つ心の平穏にたどり着くかもしれない。
私は東北の山の縦走の途中、嵐の中蝋燭1本で灯りと暖をとって過ごした木造の避難小屋での一晩の不安と安心感の混ざり合った気分を思い出す。
この揺らぎがなければまた、先に述べた実際との違いがなければ、実につまらない図鑑の絵になってしまう。
もう一度言おう。絵を見て映し出されるのはあくまで鑑賞している人間の心である。だから鑑賞はおもしろいのである。昨日の感動が、明日はないかもしれないのだ。
どうもマスコミの文章は信用ならない。特に社会面の記事はどうしようもない最低の5W1Hも最近は頓珍漢な文章が多いようである。最近の文章の乱れを嘆くマスコミ自身がいつものごとく自らを棚にあげている。鼻持ちならない。すぐに文句をつけたくなる。
記者は次のように書いている。「よくよく見ると写実的だが、正確な描写ではない。炎は長すぎるし、影は動かず真円に近い。三鷹市芸術文化振興財団の富田智子主任学芸員は「写真でもこうはならない。時間の厚みがある。描けそうで描けない絵」とみる。揺らぐ炎は何を照らすのか。画家は言葉を残していない。だが、描く姿を想像すれば、照らされるのは絵筆を握った野十郎自身ということになる。遁世し、静かに絵と向き合う画家の気配までが感じ取れる絵だ。」
どうも限られた字数のためもあろうが飛躍が多い。学芸員の言葉も前段の言葉が大いに割愛されていていそうである。炎の揺らぎ様が実際より長く、かつ輝きが実際よりは大きく、それにもかかわらず影に揺らぎがなく、炎の最下部の青も実際の青っぽい色とは違う。蝋も流れ出ておらず、ながらく燃えたらしい大型の蝋燭の揺らぎにしては円対象のまま燃えている。以上実際の蝋燭とは違うところはいっぱいある。しかしこれが絵にどっしりとした安定感・安心感を与えている。
絵である以上そうなのだ。写真ではない。
学芸員が言った言葉は切り貼りだろうから前後・途中が抜けている可能性は大いにあるが、言葉としては悪くない。的確で簡潔なのかもしれない。私なら「時間の厚み」とは云わずに「作者のこうであってほしいという思いによって見えている作者自身の頭の中で再構成され、そして熟成を重ねて作られ、作者にとっての真実の写生」とでもいうことだろう。
記者は安直な「照らし出されているのは作者自身」との結論を掲げておしまいにしているが、これは違っている。描かれているのは学芸員の言葉によれば「作者の時間の厚み」「写実の目」であり、そうなら照らし出されているのは、反射的には「作者の時間の厚み」を通してそれを鑑賞している鑑賞者の心である。
同じ炎でも見る人の心にはさまざまな違う波紋をもたらす。
蝋燭の炎自体は安らぎと安心と心のゆとりをもたらすが、それは空気の流れのわずかな擾乱がもたらす不規則で細かな揺らぎによる炎によってもたらされる微かな不安や心の擾乱と、揺らぎの復元後の安定な炎があるからである。
揺らぎをここまで見せられると或る人は、その擾乱によって大きく心に波風を立てられる場合もあるかもしれない。揺らぎによる不安をまず念頭に覚えるかもしれない。そしてその次に蝋燭の炎をじっと見ているときを思い出し、人類の始原の頃からの歴史を持つ心の平穏にたどり着くかもしれない。
私は東北の山の縦走の途中、嵐の中蝋燭1本で灯りと暖をとって過ごした木造の避難小屋での一晩の不安と安心感の混ざり合った気分を思い出す。
この揺らぎがなければまた、先に述べた実際との違いがなければ、実につまらない図鑑の絵になってしまう。
もう一度言おう。絵を見て映し出されるのはあくまで鑑賞している人間の心である。だから鑑賞はおもしろいのである。昨日の感動が、明日はないかもしれないのだ。
どうもマスコミの文章は信用ならない。特に社会面の記事はどうしようもない最低の5W1Hも最近は頓珍漢な文章が多いようである。最近の文章の乱れを嘆くマスコミ自身がいつものごとく自らを棚にあげている。鼻持ちならない。すぐに文句をつけたくなる。